『忘れてもいつも寄り添うほとけさま』

「地獄」

「餓鬼(ガキ)」

「畜生」

という言葉を聞いたことはありませんか。

この3つは三悪道(さんまくどう)といって、悪の道のワーストスリーです。

「地獄」

はあちこちに鬼が出現している世界を想像してください。

自分が鬼かもしれませんが。

やる方もやられる方も苦しいです。

「餓鬼」

は、ここらへんでいいです、ということができない世界です。

やめられない、止まらない、のどが渇く世界です。

欲を満たすことは不可能なのに、ということです。

「畜生」

はありがとうのいえないもの、と考えます。

自分のいのちが様々なおかげで成り立っているのに、自分の力だけで生きてきた、とうぬぼれている生き方でしょうか。

今日のいのちさえ他のいのちに頼らざる得ないのに。

この三悪道の他に、自分の正しさをぶつけ合って、修羅場をむかえる

「修羅」。

そして、ご存じ

「人間」

も年をとり病にもかかり死んでいく、なかなか思い通りにならないつらいものです。

最後に

「天」

は、すばらしいところなのですが、最後は薄汚れて死んでいく、地獄と比べてもつらく苦しいものだそうです。

「天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいしねぇちゃんはきれいだ♪」

と、浮かれているどころではありません。

なにより苦しみ悩むものに心を寄せづらい環境です。

いずれも苦しみの輪廻を表しています。

こんな話をお勤めの後にするのですが、先日、ある女性がお話しにこられました。

「先生、今日のお話はとても胸に響きました」

(えー、何回も同じ話をしているはずですけどねぇ、と私の心の声)

「考えてみると、うちの中のことがそのままですね、地獄であったり、畜生であったり・・・修羅場もありますし」

そうか、この方は、今日の話は自分のこととして聞かれたのだなぁと気づきました。

ここで違う世界が見えてきます。

苦しみ悩むものが私である、と気づかされたときに、この私を救わねばならないという仏さまのおこころに触れることができたのです。

常日頃は地獄の中にいても、それすら忘れている私が、仏さまの心に触れて、我が身の悲しさと同時に仏さまの尊さを感じることができたのです。

あの女性は他の人の話ではなくて自分のことですから、なによりうれしかったのではないでしょうか。

「忘れても」

というのは、仏さまを忘れているというより、自分の有り様を忘れていると読んでいくことも忘れてはいけないことです。