私たちは、日頃無意識の内になのですが、心のどこかで自分の人生は
「思い通りにいくはずだ」
と考えていたりします。
けれども、そのようなことは誰も保証してくれている訳ではありませんし、日々の生活の中で思い通りにいかないことにしばしば直面します。
それはむしろ当然のことなのですが、そのような時、自身の現実から目をそむけて
「運命だった」
という言葉であきらめようとしたり、
「不幸な出来事だった」
として、その一切を切り捨てようとすることさえもあります。
仏教では、決して
「運命」
ということは言いません。
それは、自分がどのように努力をしても、あるいは何もしなくても、前から決まっていて仕方のないことだったとあきらめるあり方だからです。
そうではなくて、この私の思い、私の選びを超えて、私のいのちの事実として与えられてあることを、まさしく私のいのちの事実として責任を持ち、その事実を引き受けて立ち上がり、生きて行こうとする勇気を
「智慧」
といいますが、その智慧によって生きることを説く教えこそ仏教だからです。
私たちが、勇気を持てない時に口をついて出てくるのは
「愚痴(ぐち)」
です。
愚痴とは、私の身の事実を引き受けられない弱さのことです。
仏教では、覚りの智慧を
「無生法忍」
と、忍ぶという字で説いています。
阿弥陀仏の四十八願の一番最後は
「得三法忍の願」
といわれています。
そういう
「忍」
を得るということ、その忍とは文字通り耐え忍ぶ勇気です。
事実を事実として耐え忍んでいく勇気、それを忍という字で表し、それが仏教の開いてくる智慧なのだという訳です。
仏教によって賜る智慧は、決して
「あれもこれも何でも分かっている」
ということではありません。
我が身の事実を生きていける勇気のこというのです。
どこまでも、事実を事実として受け止めて生きてゆける、そういう勇気を、仏教では智慧という言葉で表しているのです。
ところが、私たちの場合、自分の思いがその通りにならないと、すぐに行き詰まり、時には絶望的な思いに陥ることさえもあります。
確かに、私たちは自分の思いが行き詰まったりした時は、とても辛いものです。
しかも、もしそんなときに一人ぼっちでいたとしたら、そういう行き詰まりには耐えられないことがあるかもしれません。
人間、ひとりぼっちでいる時には、自分の思いが行き詰まるような生活や、そのような現実に向き合ったりすると
「私一人だけが、何でこんな目に遭わなければならないのか」
「何でこんな辛い人生なのか」
と、それこそ愚痴しか出ないこともしばしばあります。
経典には
「心塞(しんふさ)がり意(こころ)閉じる」
という言葉が出てきますが、辛いとか苦しいといった現実において、自分の心を閉ざしてしまったら、あとはもう絶望するしかないのです。
もしかすると、人によっては
「仏法を聞けば悩みなどなくなる」
という期待感を抱くことがあるかもしれませんが、いくら仏法を聞いても、この世を人間として生きていく限り、何の問題もなくなるということはありえません。
また経典には
「心開明(こころかいみょう)することを得つ」
という言葉もあります。
これは、仏法は心がおのずと開かれるような、それこそ善き人々の世界を私たちに伝えて下さることを明らかにする言葉です。
「誰も自分のことを理解してくれない」
そういう思いに閉ざされている私たちに、
「ここにこういう問題を担いながら、人間として一生懸命に歩んでいる人がいるよ」
と、私に先立って一歩一歩生きていかれた善き人々の歴史に出遇わせてくださるのが、仏法の世界なのです。
親鸞聖人においては、それは七高僧に代表される善き人々の歴史でした。
そういう人々の歴史に出遇う時に、私たちは初めて自分のいのちの事実というものを本当に受け止めていくことができるのではないかと思います。
うまくいなかいことを
「いつも誰かのせいに」
するのではなく、そのような人生だからこそ、私の前を歩かれた善き方々の語りかけに真摯に耳を傾けたいものです。