『愚痴いつも誰かのせいにして』

私たちはみな

「自分のことは自分が一番よく分かっている」

と言いながら、自分自身を頼りにして生きています。

でも、本当は自分のことが一番分からない、頼りにならない存在であり、一番見えていないのが自分自身の姿なのではないでしょうか。

自分の姿が見えている

「つもり」、

自分自身が一番頼りになる

「つもり」

で生きていますので、思うようにならないと、いつも誰かのせいにして、愚痴(ぐち)の生活になってしまいます。

私の母は、いま老健施設で生活しています。

寂しがるので、時々面談に行きます。

お風呂、トイレ、食事、車椅子と、すべて介護してもらわないと、何ひとつ自分では出来ません。

でも、口だけは達者ですから、面会に行くと速射砲みたいに語りかけてきます。

私は

「ふん、ふん」

と頷くだけですが、母の口をついて出る内容は、いつも愚痴の繰り返しです。

「こんなはずではなかった。

若い時はどうだった。

でも、あの人に比べたらまだましだ。

骨折したのはスリッパのせいだ。

近頃○○さんは顔を見せない…」

と、自分の置かれた現状は、まさに他人のせいだと言わんばかりの話が続きますと、母は出口のない闇の中にいるような暗い気持ちになってしまいます。

でも、私が

「そろそろ時間だから帰るよ」

と言うと、

「気をつけて帰るのよ。

南無阿弥陀仏」

という言葉が必ず返ってきます。

法然聖人は

「浄土門の信仰は愚痴に返って念仏する」

と言われたそうです。

私たちの眼は、外側(他人の姿)はよく見えますが、内側(自分の姿)を見ることは出来ません。

帰り際に、母が称える

「南無阿弥陀仏」

の一声を聞くたびに、法然聖人の言葉が心に響いてきます。

お念仏とは、自分自身の愚痴の姿を照らし出し、目覚めをうながしてくれる鏡のようなものではないでしょうか。