『念仏の声は尊く 合掌の姿は美しい』

 浄土真宗では、念仏申す、あるいは念仏をとなえるというときの

「となえる」は、

「唱」

ではなく、必ず

「称」

の字を用います。

「唱」

の字は、文字通り声(口)をあげてうたうということであり、日蓮宗系統の人たちが

「南無妙法蓮華経」

と題目をとなえるときは、この

「唱」

の字を使います。

いわゆる

「唱題目」

です。

そこでは、いかに一生懸命に数多く題目を唱えたかという、その努力精進が問われます。

一方、浄土真宗で念仏をとなえるというときの

「称」

の字は、決して

「唱」

のように、口をあけてうたうということではありません。

親鸞聖人は、その主著

『教行信証』中で、この

「称」

の字について字訓釈をほどこしておられます。

字訓釈というのは、浄土真宗の教義において根本となる言葉について、その字の意味をひとつひとつ言葉をおさえてあきらかにされたものです。

この

「称」

の字について、親鸞聖人は先ず

「軽重を知るなり」

と、明らかに示しておられます。

「称」

は、口をあけて声に出すということではなく、

「軽重知る」

ことだと言われるのです。

これだけでは、その真意を知ることは難しいので、さらに言葉を重ねて

詮(はかり)なり 是(是正する)なり 等(均等にする)なり 俗に秤につくる

斤両を正すを云うなり

と字訓しておられます。

この字訓は、

『一念多念文意』

という著述の中でも

 

「称」

は、御なをとなうるとなり。

また、称は、はかりというこころなり。

はかりというは、もののほどをさだむることなり。

と、述べておられます。

 これより

「称」

の字は、はかり(秤)の意味だということが窺い知られます。

秤は

「斤両を正す」

「もののほどをさだむる」

道具です。

それは、品物に応じた分銅を乗せることで、そのものの重さを定めるものです。

つまり、品物の重さと分銅の重さとがピタッとひとつに定まることで、斤両が正されるのです。

そして、そのように両者がひとつになることを

「称」

というと言われるのです。

 これを

「称名」

ということに移しますと、それは仏の名のりと、その仏名をとなえる衆生の心とがひとつになったということを表します。

この仏の名のりというのは、具体的には

「我が名(南無阿弥陀仏)をとなえよ」

という名のりですから、念仏申すということは、まさに

「念仏せよ」

という仏の呼びかけを聞き、うなずくことに他なりません。

 ですから、親鸞聖人は

『一念多念文意』

の先ほどの言葉に続けて

 名号を称すること、とこえ、ひとこえ、きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり

と、述べておられるのです。

ここで興味深いのは

「名号を称すること、とこえ、ひとこえ」

ですから、当然、つぎには

「となうるひと」

とあるはずなのですが、親鸞聖人は

「きくひと」

とおっしゃっておられることです。

このことから

「称すること」

の内実は

「きくこと」

だということが知られます。

つまり

「念仏申す」

ということは、仏の名のりにうなずくことであり、そこに

「念仏申せ」

という仏の言葉を聞き、それに順うということなのです。

このことから言えるのは、となえることにおいて聞くということのないのが

「唱」

であり、となえることにおいて聞くという生活・世界が開かれるのが

「称」

であるといえます。

したがって、称名念仏は、つねにそこから人を聞法者として生み出していくはたらきをなしていきます。

さて、なぜ

「念仏の声は尊く 合掌の姿は美しい」

のでしょうか。

それは、念仏の声は私が称える声でありながら、そのまま仏が私を呼ぶ声そのものだからです。

また

「念仏申す」

ということは、私が仏を

「讃嘆」

するということですが、聞法の中からなされる

「讃嘆」

は、必ず自らの罪業性を心から

「懺悔」

するところから生れるものです。

この場合、自分をほんとうに懺悔するというのは、自分で自らを懺悔するのではなく、自分を超えたものにふれたとき、初めてはからずもすべて頭が下がってしまうということです。

ですから、懺悔ということは、讃嘆なしにはないのです。

一方、讃嘆のない懺悔ならば、それはただ暗い顔をしているだけのことであって、単なる愚痴の一つに過ぎません。

教えを聞くことを通して、自らを深く懺悔する中からなされる讃嘆の姿、それが念仏申す合掌の姿です。

だからこそ、その念仏の声は尊く、その合掌の姿は美しいのだと言えます。