最近、法事の場でも、葬式の場でも、念仏の声があまり聞こえてきません。
もしかすると
「南無阿弥陀仏」
と念仏を声に出して称えることが恥ずかしいのでしょうか。
念仏を声に出して称えることを勧めると、中には
「心の中で称えたらいいでしょう」
と言う人までいたりする昨今です。
しかし、浄土真宗の念仏は心の中で称えるものではなく、
「称名念仏」
といい声に出して称(とな)える念仏です。
それは、広大な阿弥陀仏のお慈悲の心を称(たた)えることですから、やはり声に出して称えることが大事です。
「われ称え われ聞くなれど 南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの 親(仏)の呼び声」
(原口針水)
という有名なうたがあります。
自分が称える念仏ですが、それはそのまま、また、阿弥陀仏の呼び声でもあると言われるのです。
私の称える念仏では有りますが、それはそのまま仏のよび声だからこそ尊いのです。
親鸞聖人は『唯信抄文意』に
「この如来の尊号は不可思議にして一切衆生をして涅槃にいたらしめたもう」
と、この南無阿弥陀仏の名号は、私たちの思いを超え、全ての生きとし生けるものを覚りの世界に至らしめてくださることをたたえておられます。
私の口から念仏が出てきたということは、私はすでに阿弥陀仏の救いの手の中にあるということです。
だからこそ、私たちは阿弥陀仏のはたらきによって、かならず涅槃にいたることができるのです。
仏前でお参りする時、私たちは念仏を称えながら合掌をします。
その合掌の心は、感謝の意をあらわすものです。
多くの迷いに満ち満ちたこの私を、かならずさとりの世界にいたらしめてくださる阿弥陀仏に、心からありがとうございますとお参りするのです。
仏前に座って合掌し礼拝する姿は、とてもいいものです。
ただしその場合、自分の身勝手な思いを仏に祈ることで何とかかなえてもらおうとしているのであれば、それは決して美しいものとは言えません。
ある入仏式の時、ひとりのご婦人が自分や子や孫の名前を言って、身内だけの幸せを仏さまに願ってお参りしておられました。
その様子を見て、少しさびしい気持がしました。
もうだいぶん昔の事です。
明治生まれのおばあさんで、カタカナしか読めない人でしたが、本堂にお参りされると、必ず声に出して
『御文章』
を読み、
「ありがたい、ありがたい」
と言いながら合掌しておられました。
そのお姿は、本当に尊く美しいものでした。