多くの仏教経典には
「歓喜」
という言葉が出てきます。
仏教語では
「かんぎ」
と読みます。
よく知られている
「阿弥陀経」
の結びの部分には、お釈迦さまの説法が終わった時、その会座に集まって教えを聴聞していた人々が、みなことごとく歓喜したということが記されています。
仏教では、特にお釈迦さまの教えを聞くことによって生ずるとされています。
それは、身も心も喜ぶということです。
親鸞聖人は
「歓は、身をよろこばしむるなり。
喜は、心を喜ばしむるなり」
と、述べておられます。
このように、心ばかりではなく、身の喜びが同時に得られているのです。
これはまことの信心の歓喜であると親鸞聖人は言われます。
その歓喜は、煩いと悩みに満ち満ちた人が、一切衆生を平等に仏にならせようと願う如来の心を聞いて、それがまさしく自分に向けられた本願だったのだと自覚する時に生ずるのです。
それはそりまま一切の苦悩する衆生と共感し合える歓喜です。
それに対して、私たちが喜ぶのは、ただ自分の欲望がかなった時ということが大半のようです。
したがって、その喜びは自分だけ、あるいは仲間内だけのものであったりします。
また、その喜びはしばらくも留まらず、すぐに憂いに転じてしまうものです。
それではまことの歓喜といはいいえません。
私は欲望に満ちた身です。
けれども、その欲望をなくすることも出来ません。
そのことに気付かされ、凝視していくことの他には、真の意味での歓喜はありえないといえます。