釈尊の教えは、伝統的なバラモン思想や六師外道と呼ばれる自由思想家など、当時のインド思想一般を批判し、それを超えて新たに求められたものだといえます。
そこで仏教徒は諸々の思想との根本的な違いを四(または三)つの項目にまとめ、他の教えと区別する目安としました。
これが四法印(三法印)と呼ばれる教えです。
「印」
とは旗印を意味し、もしこの条件が具わっていれば、その思想は真実仏教の教えに違いないと断定するための証拠としたのです。
したがって、たとえその教えが、仏教思想だと伝えられているとしても、もし四法印に照らしてみて、明らかな間違いが認められるとすれば、それは仏教ではないということになります。
さて、この四法印とは
「諸行無常」
「諸法無我」
「一切皆苦」
「涅槃寂静」
のことで、三法印の場合は
「一切皆苦」
が省略されます。
第一の
「諸行無常」
という言葉は、そこから何か物哀しい響きが感じられますが、実はこれは感情の哀れさを示す言葉ではなく、この世の現象の在り方を示すものです。
「諸行」
とは、すべての現象のことを指します。
この世の全ての現象は、例えば神の意志のような、一切を超越した何ものかによって支配されたり動かされたりしているのではなく、種々の原因や条件(縁)によって形作られていて、常に消滅変化してゆくのであって、何ものも永遠不変ではありえないことを説いています。
第二の
「諸法無我」
とは、先の
「諸行無常」
から導かれる真理です。
世のすべてが一瞬としてとどまることがないとすれば、それはそのまま私自身に関しても認められなくてはなりません。
この真理を示す言葉が
「諸法無我」
です。
「諸法」
とは、あらゆる存在のことです。
我とはアートマンのことで、いつまでも永遠に変わることのない独立した実体です。
霊魂と訳されることもあります。
仏教は無我の思想だといわれますが、無我とは単にアートマンの存在を否定するだけではなく、存在の有無を議論すること、それ自体が現実の覚りには何の役にも立たないことを教えています。
第三の
「一切皆苦」
とは、すべてのものが苦しみであるということです。
一切が変化し移ろいゆくものですから、私たちが何かそれらに対して執着すれば、必然的に苦しみが生まれます。
ですから
「苦」
とは、苦痛や苦悩というより、自分では思い通りにならないことを意味しています。
そうした苦には四苦・八苦がよく知られています。
四苦とは、生・老・病・死です。
八苦とはこれに愛別離苦(愛する人と別れる苦しみ)・怨憎会苦(怨み憎む人と会う苦しみ)・求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)・五蘊盛苦(存在を形作る五つの要素から生しる苦しみ)を加えた八つの苦をいいます。
第四の
「涅槃寂静」
とは、私自身において
「諸行無常」
「諸法無我」
の実相が覚知される時の心を指すものであって、完全なる寂静、理想の境地がここに実現されます。
つまり
「涅槃」
とは、煩悩の火が吹き消されている状態のことです。
涅槃に至るには、この現象をあるがままに観察し、自分自身を含むあらゆる物事への執着を断ち切らなくてはなりません。
煩悩が消え、苦の無くなった状態が寂静です。