「縁起」
という言葉は、今日では
「縁起がよい、悪い」
というように、
「ものごとの起こる前ぶれ、前兆」
の意味で用いられています。
けれども、縁起とは本来、釈尊が目覚めた真理を意味するものです。
したがって、縁起の思想は仏教の根本教義だということができます。
さて
「縁起」
とは正しくは
「因縁生起」
のことで
「因(よ)って起こること」、
具体的には
「苦しみは、何らかの直接的な原因(因)と間接的な条件(縁)によって起こり、その原因・条件(縁)がなくなれば、苦しみもなくなる」
ことを説くものです。
すなわち、縁起の思想は、苦しみを生み出す因果の系列をさかのぼることによって、苦しみの根本的に原因、つまり無明(根本煩悩)をさぐりあて、それを滅することによって、苦しみを解消することを目指す実践的な意味を持っています。
釈尊は、無明によって苦が生まれ、また無明を滅することによって苦も滅せられることを心身の調和を得た瞑想によって明らかにのだといえます。
こうした縁起の教えは、後に整理されて
「十二支縁起(十二因縁)」
と呼ばれる教えとして完成されます。
十二支とは、
(1)根源的な無知(無明)
(2)生活行為(行)
(3)認識作用(識)
(4)心と物(名色)
(5)六つの感覚機能(六処)
(6)対象との接触(触)
(7)心の作用(受)
(8)本能的な欲望(愛)
(9)執着(取)
(10)生存(有)
(11)誕生(生)
(12)老いと死(老死)
のことです。
この
「十二支縁起」
の理解については、いくつか解釈があって難しいのですが、私たちは縁起を、釈尊はこの世界が無常であることを明らかにすることによって、この世の苦しみを説明する一方で、苦しみを滅するために、苦しみを生み出す原因が無明であることを明らかにされた思想であると知ればよいのだと思います。
ところで『雑阿含経』などにおいて、十二支縁起が説かれる初めの部分には、しばしば
「これあればかれあり。
これ生ずればかれ生ず。
これなければすれなし。
これ滅すればかれ滅す」
という定型の表現が見られます。
ここには縁起の思想が一般化され、現象世界の法則性として示されています。
それは、この世に存在している一切のものは、何一つとして単独にあるものはなく、みな持ちつもたれつ関係の中で、一切が存在しているということを説くものです。
そうすると、私たちが見たり、体験するこの世界の一切の出来事は、必ず種々の原因と条件が重なりあって成立していることになります。
不慮の事故が起こった場合、苦しみや不安が突然、私のところにやってきた時、私たちは、それが不意に条理なことが起こったと見てしまいます。
けれども、実はその事柄は必ず原因や条件が複雑に重なりあって起こっているのです。
仏教では、この現に起こっている個々の事柄をごまかさないで、あるがままに如実に見ることを
「縁起を見る」
といい、またそのように見ることができることを
「智慧を得る」
というのです。
したがって、私たちは縁起の思想における因と縁、そして結果の関係を時間的な関係と同時に、また空間的な関係において理解することが大切だといえます。
すべてが変化し、何一つ頼るもののないこの世界において、いま私がこうしてあるという事実は、さまざまないのちによって支えられてあるということです。
だから幸せだと釈尊は示されているのです。