ものごとをごまかさないで見つめると、そこには二つの真理が見えてきます、一つは迷いの真理であり、いま一つ悟りの真理です。
そしてそれぞれに、真理のすがた(結果)と原因を見ることが出来ます。
この真理の見つめを
「四諦(したい)」
といいます。
「諦」
は今日では
「あきらめる」
と読まれ、途中で断念してしまうことの意味に使われていますが、本来の意味は
「あきらかにする」
ということで、ものごとを徹底的に見ること、真理そのものを指します。
つまり
「四諦」
とは、迷いと悟りに関する四つの真理を表したものなのです。
人はなぜ、この世において苦しみ続けなくてはならないのか(苦諦)。
それは欲望という煩悩に惑わされて、あらゆるものに執着し、真実を見ることが出来ないからです(集諦)。
したがって、その欲望を滅すれば(滅諦)
「涅槃寂静」
の悟りの境地が得られることになります。
ここに欲望を滅するための八つの正しい道(道諦)が説かれることになります。
これが仏教の根本原理である
「四諦・八正道」
で『律蔵大品』では、次のように説かれています。
苦しみを滅ぼした尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなければならない。
八つの正しい道というのは、
・正しい見解(正見)、
・正しい思い(正思惟)、
・正しい言葉(正語)、
・正しい行い(正業)、
・正しい生活(正命)、
・正しい努力(正精進)、
・正しい憶念(正念)、
・正しい心の統一(正定)。
これらの八つは、欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦)といわれる。
さて、具体的に人生をよく生き抜くためにはどうすればよいでしょうか。
第一に、正しい人生観を持つこと、どのような人生を送ろうとしているのかを正しく見定めることです。
第二に、正しい人生を送るための心構えが求められます。
ここでは極力、
貪欲(とんよく)
瞋恚(しんに)
愚癡(ぐち)
といった三毒の煩悩が否定されます。
では、そのためにはどのようなことに注意しなければならないでしょうか。
第三に、正しい言葉使いが問題になります。
心がすぐ口に表れるからで、嘘や悪口、二枚舌やおべっかは言うべきではありません。
これら正しい思いと言葉でもって、正しい行為をすればよい、それが第四です。
殺すこと、盗みをすること、淫らな行為をすることは、最も厭うべき行為になります。
このように私たちの日常生活は、正しい心と口と身体のはたらきによってなされています。
私たちはいかによく生きるべきか。
つまるところ、ものごとを常に理性的に正しく判断し、倫理的に正しく生き、そして安らかな心が保たれていることが、私たちの人生で求められます。
では第五の正しい生活は、どうすれば可能でしょうか。
そこにものごとを正しく判断する智慧の目が必要になってきます。
そして正しさを遂行するために、確固不動の意志と、正しさを曲げない毅然たる態度が求められます。
心と言葉と行いが、正しきなければならないのは当然です。
第六の正しい努力とは、それらを可能にするためのはたらきを意味します。
努力なしには正しい生活は成り立ちません。
けれども、自分が信念を貫き正しい行為をしても、他の人々の心を傷つけたのでは正しい行為とはいえません。
ここに第七の、思いやりの心が必要になってきます。
確固不動の意志が、そのまま柔和忍辱(にゅうわにんにく)でなければなりません。
やわらかく穏やかで、他の意見を受け入れ、その人の気持ちになって考え行う。
正しい努力は、このような正しい憶念によってなされるべきです。
この一切が、第八の正しい心の統一によってのみ可能になるのです。
したがって八正道とは別々にあるのではなく、調和し関係しあって一つの
「正しい道」
を形成していることになります。
一つ欠けても八正道は成り立ちません。
そうだとすると、仏教者にとって
「正しい行い、正しい生活、正しい努力」
を真の意味で行うのはとても困難です。
ここに、親鸞聖人の説かれる
「愚か」
の心が、ここにいま一つ、どうしても必要になる理由があります。