『大乗仏教』

親鸞聖人の主著『教行信証』の

「行巻」に

「真宗は大乗の至極なり」

とあります。

「乗」

というのは、乗り物のことです。

すべての衆生を乗せることができる大きな乗り物であることから

「大乗」

と呼ばれます。

しかもそれは絶対的な唯一の乗り物ですから

「一乗」

とも表されます。

また、乗せるということは、救うという意味にもとれますから、すべての衆生を救う唯一絶対の教法となります。

このような教えは仏(如来)の乗り物以外にはありませんので

「仏乗」

ともいわれます。

そして、その仏こそ阿弥陀仏なのです。

そうしますと、一切の仏教の中で、もっとも重要な法門こそが阿弥陀仏の誓いによって打ち建てられた浄土真宗の教えだということになります。

大乗仏教では、智慧と慈悲の実践者を

「菩薩」

と呼び、この大乗菩薩道の実践こそが大乗仏教の特徴だと示されます。

ところが、この菩薩道の実践は、凡愚にとっては極めて困難なことです。

曇鸞大師は、この世には既に仏がましまさず、世の中はまことに乱れている。

誰一人真実を見る目を持っていないから、菩薩道そのものが成り立たないと言われます。

道綽禅師もまた、今の世を末法時代だとして、真の救いは阿弥陀仏の浄土教によるしかありえないと教えられます。

親鸞聖人ご自身も『正像末和讃』に、

釈迦如来かくれましまして二千余年になりたまふ

正・像の二時はおはりにき如来の遺弟悲泣せよ

と、いかに末法の世には菩薩道の実践が成り立たないかを悲しんでおられます。

けれども、この悲しみの中で、一心に仏道を求められ、釈尊の真意を法然聖人から聞き、阿弥陀仏の

「浄土真宗」

のみ教えに出遇われたのです。

親鸞聖人はこの末法の世において、一声

「南無阿弥陀仏」

を称えること、その称名こそが一切衆生が仏果に至る唯一の仏道であり、

「易行の至極」

だととらえられます。

愚かな凡夫ばかりの社会では、もはや真の意味で仏道は成り立ちません。

愚悪なる者の仏道は、たとえその者がどのように懸命に善行に励んだとしても、その行為の一切が雑毒であり虚仮の行でしかありえないからです。

ではこの人間社会で、もし無限に輝く仏教があるとすれば、それはどのような仏の教えなのでしょうか。

教えそのものの中に、凡愚をして仏果に至らしめる、行業と証果の功徳の一切が含まれている、そしてその

「教」

が大行となって、無条件で凡愚の心に来たり、凡愚を直ちに仏果に至らしめる、そのような仏教だといえます。

「南無阿弥陀仏」

とは、まさにその

「大行」なのです。

だからこそ、私たちが称える一声の念仏が、仏果に至る

「易行の至極」

ということになるのです。

仏教者の願いもただ一つだといわねば成りません。

それは自らが無上仏になることです。

この願いは仏道者である限り同じであって、菩薩は言うに及ばず、いかなる凡愚も無上仏になることを願うのです。

ところで、いまその無上仏が

「南無阿弥陀仏」

という言葉となって、私の心に聞こえてきたのです。

その声は無上仏の、私を仏にせしめるための願いです。

「南無阿弥陀仏とたのめ、あなたを無上仏にせしめる」

という仏の呼び声が、私の心に響いているのです。

しかも私自身も心から仏になることを願っています。

とすれば、私もまた

「南無阿弥陀仏」

と称えつつ、南無阿弥陀仏に一切をまかせる以外に、私の仏道はありえなくなります。

この仏からの

「南無阿弥陀仏を称えよ」

という願いが、阿弥陀仏の大信心であり、信楽なのです。

そして、その仏道とは

「南無阿弥陀仏」

のみだと私が信知する時が私の獲信の瞬間であり、まさに仏果の定まる時です。

親鸞聖人は

「真宗」

の念仏者として、法然聖人の

「ただ念仏」

の教えのみに生きられたご一生であったとうかがえます。

そこには何のはからいも力みもみられません。

自らもたんたんと人々に念仏を勧められた、ただそれのみです。

人生の苦悩に打ちひしがれた多くの人々が、この教えに導かれて心から喜びを生きる光を得て、各々が念仏者としての仏道を歩いているのです。

とすれば、法然聖人も親鸞聖人も、愚かなる凡夫道のただ中にありながら、まさしく智慧と慈悲に輝く大乗菩薩道を邁進された方々だといえます。

そしてこれこそが

「真宗は大乗の至極なり」

といわれる念仏の大道の意味だと窺い知られます。