「私は こんにちまで 海の 大地の 無数の生きものを 食べてきた 私の つみのふかさは底しれず」 この詩にある通り、私たちの日々の生活に欠くことの出来ない食事は、他の生きものの「いのちを頂くこと」をその内実として成り立っています。
そのような意味で、食事とは海や大地の無数の生きものの「生きているいのち」を殺して、それを食べて私のいのちにかえることだとも言えます。
たとえ直接自らの手を下してはいないとしても、他の「いのち」を私の血となし肉となして生きているのは確かな事実です。
もちろん、他の「いのち」を奪い、自らの「いのち」として生きているのは何も人間だけに限ったことではありません。
けれども、人間が他の生きものと決定的に違うのは、人間だけが「殺す」ということを知っていると同時に、「殺す」という意識を持ってしかも殺しているという点です。
人間が本当に人間らしく生きるということは、この「殺す」ということにどれだけの感情を持つことができるかどうかが極めて重要なことであるように思われます。
他の生きものの「いのち」は果たして「人間が食べるため」にあるのでしょうか? それが「いのち」であることを思う時、心をこめた「頂きます」の言える私でありたいものです。