「かけがえがない」とよく口にしますが、一つは「今しかない」ということなんです。
仏法では「明日といふことはあるまじきよしの仰せに候ふ」とおっしゃいます。
今、思うようにいかないから、明日、明後日には見返してやる。
しかしその答えは、どんなに努力したって精進したって必ず出てくるとは限らないし、むしろ出てきやせんのです。
確かなものはやっぱり今なんです。
私の好きな先生の、故東井義雄さんという方がこんな詩を書かれています。
「目がさめてみたら生きていた。
死なずに生きていた。
生きるための一切の努力をなげてて、眠りこけていたわたしであったのに、目がさめてみたら生きていた。
劫初以来、一度もなかったまっさらな朝のどまんなかに生きていた。
いや、生かされていた。」
「劫初以来」というのは長い長い年月の遠い昔。
それ以来、一度もなかったまっさらな朝のどまんなかに生きていた。
確かに私たちは、昨日も今日も明日もきっと朝を毎日のように迎えます。
しかし、今日出会った朝は、昨日やない、一年前やない、十年前やない。
劫初以来昔から続いている朝であっても、まっさらな朝というその感動、むろん条件も違えば、時や場所も違うし、私の心境も違うまっさらな朝。
それを体全体で感動しながら、受け取っている。
ということば、飛躍して言えば、今しかないんですよ。
済んだことはニ度とどうすることも出来ないことであり、これからやってくる未来は、何が起こるかわからない世界なんです。
確かなのは今生きている、生かされている実感を一番味わえるということなんでしょうね。
(続く)