「今をいかに生きるか」(2)5月(前期)

「正しい生活」ということを考える場合、親鸞聖人の中心思想の一つである「悪人正機」の問題と重ねて考えることが出来ます。

これは、端的には「凡夫である自分自身の本質を見極めるならば、悪でしかない」という教えです。

 ここで興味深い話があります。

大正から昭和初期の頃だと推察されるのですが、日本で犯罪の少ない地方はどこかという調査が行われた時に、それは浄土真宗の教えの盛んな地方であるという結果報告がなされたそうなのです。

浄土真宗では、自分の姿を悪人だと教えています。

ところが、その悪人の集まる社会において犯罪がないのです。

 では、自分が悪人だと教えられて、人はなぜ悪を犯さないのでしょうか。

私たちは社会の中で生活するためには、いろいろなことを我慢しなければなりません。

ところが、この愚かな私がいまここで生活することが出来ているのは、他の人々が私のことを我慢してくれているからなのです。

つまり、私が我慢している自分を見るのではなく、我慢されている自分を見ることになるのです。

自分の姿の至らなさが分かることによって、お互いに他を讃えるようになるのです。

私のために、あの人が働いてくれている、相手にそのような思いを持つことが出来れば、そのような社会においては悪事の犯しようがなくなってしまうのです。

 阿弥陀仏はいかなる衆生でもお救いになります。

どのような悪人も阿弥陀仏によって救われるのです。

したがって、私たちは阿弥陀仏の前では何もかまえる必要はないのです。

別に善人であるかのように務めなくても、そのままの姿で全てを阿弥陀仏の前にさらけだしてしまえばよいのです。

そのような意味で、私たちは何をしても、全て阿弥陀仏の手の中にある、常に阿弥陀仏の大悲心の中で生かされていると言えます。

ということは、私はどこにいても、いついかなる場合でも、その一切が阿弥陀仏に見られている中で生活していることになります。

例えば、浄土真宗では本堂で寝そべっていても、別にかまいません。

なぜなら、私たちは阿弥陀仏に本当に甘えることが出来るからで、本堂は自分にとって、本当に心の安らぐ場となっているからです。

けれどもその一方、本堂では絶対に悪事は行えません。

阿弥陀仏がご覧になっているからです。

一般に、人が見ている前で悪事は行えないものです。

誰も見ていないと思っているからこそ誤魔化したりも出来るのです。

 浄土真宗では、正しい生活を行えという厳しい規定は特にありません。

むしろ、善をなしえないと教えられながら、しかも阿弥陀仏の大悲に生かされている自分を知ることによって、浄土真宗の教えの盛んに地域では、お互い悪を犯さない社会を作ってきたのです。