親鸞聖人における「真俗二諦」2月(前期)

以上が、親鸞聖人が引用される『末法燈明記』冒頭の大意です。

この引文中に見られる

「真諦・俗諦」

の意味は、曇鸞引文に見られた意味とは異なり、真諦とは仏法のことを、俗諦とは仏法に即した世俗の法の意を指しています。

では、親鸞聖人はこの『末法燈明記』を通して何を言おうとしておられるのでしょうか。

それは、このような真諦・俗諦の関係は、この末法の時代には全く成立しないことを示して、念仏者になされた弾圧の非なることを糺そうとしておられるのだと思われます。

末法の時代には、真の仏道(真諦)を行じ得るものは一人としていません。

そのような世で、国家が仏教の教えに従って国を治める(俗諦)ことなどありえないとされるのです。

このような意味からすれば、親鸞聖人の思想はまさに、仏教一般が意味している真諦と俗諦の関係の否定の上に成り立っていると見なさなければなりません。

親鸞は、『教行信証』の後序に

ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり

と、明確に言い切られます。

今は、釈尊が定められた仏道も、その仏道による国家の法律も成り立たない時代であるからこそ、阿弥陀仏の仏法のみが仏果への道を開いているのだと示されるのです。

まさしくこの世には、真の意味での真諦と俗諦の関係はもはや存在しえません。

しかも国家が支配する法は、ただ世俗の法のみです。

この末法の、世俗の法のみが支配する世の中にあって、凡愚の仏果に至りうる道は、ただ阿弥陀仏の他力による回向法のみである。

これが親鸞聖人によって樹立された、まったく新しい仏道であったのです。