親鸞聖人における「真俗二諦」1月(後期)

これによっても知られるように、凡夫には仏教が本来意味する真諦俗諦に順じるものは何も存在しません。

凡夫は、本来的に

「二諦」

なしという真実をここで示しておられるのだと受けとれます。

今ひとつの真諦・俗諦の語は

「化巻」

の三時思想を示す、今は末法であるということを明かす箇所に見出すことができます。

そこで親鸞聖人は、最澄の『末法燈明記』を引用して、真諦と俗諦について次のように述べておられます。

『末法燈明記』を見ると、

「一如に範衛して」

とある。

範衛とは、法を守るの意であるから、まず仏教が意味する唯一絶対の真実が明かされるのである。

真如法性の真理をよくまもり、その法に順じて、そのごとく一切衆生を教化し、仏果に導くのは、法王(仏)の行為である。

「光沢」

とは、天下を治めるの意であるから、この現実の世界において、東西南北その一切の天下を治め、そこに仏教の教えにのっとった社会・国家を築いていくのは仁王(仏法の徳によって育てられた、理想的な王)によってだとする。

仏の教法と、仏の教えを受けた国王によってこそ、人々はよき方向に導かれるのである。

真諦と俗諦がたがいによく関係しあって、仏法を世界に弘めるのである。

このようにして玄籍は宇内に満ち、嘉猷は天下をおおう。

深い道理をもった仏教の教えが、その国中にみちひろまって、その教化によるよき政治が、天下にゆきわたるのである。

ここに仏法の道理があると教えられているので、私たち愚僧は、朝廷によって宣布された僧尼令をつつしんでお受けし、その法を遵守したてまつっている。

何ひとつ反対の立場をとらず、ただひたすら、その酷しい法律をいただいている。

ところがどうしたことか、自分は一心に仏の教えを実践し、国が定める法を守っているのに、我が心は昼も夜も、全く安らかさを見出せない。

それは何故であるか。

思うに、如来の法には、正像末の三時があり、我ら人間の資質にも、また上中下の三種の区別がある。

したがって教化や制度のその趣旨は、その時々によって変化する。

まさに

「盛衰は時の流れによって異なる」

のである。

そしてその時々によってなされる、誹謗と称賛の声も、人それぞれによって種々の取捨選択があるのである。

中国における古代の移り変わりも一様でなかったし、仏滅後に見る、五百年ごとの機類の悟りの開き方も異なっているのではないか。

これが世の真相であれば、どうしてひとつの定まった形のみを押しつけて、人を救うことが出来るのであろうか。

またその一つの道理のみで、国家の全体を治めることが出来るのであろうか。

それ故に、自分は今、正像末の様子を詳細に示して、末法時における破持僧の様子を明らかにしたいと思う。