親鸞聖人における「真俗二諦」2月(中期)

親鸞聖人は、末法の世、世俗の法のただ中における真の仏道とは何かをただ問い続けられます。

したがって、阿弥陀仏の本願他力の法と親鸞聖人ご自身との関わりが、親鸞聖人の思想のすべてになります。

では、親鸞聖人はこの世俗のみの世を、仏教者としてどのように生きられたのでしょうか。

既に述べたように、親鸞聖人の究極的な関心事は、末法を生きる凡愚が仏になる道を求めることにあります。

念仏の法門は、その意味においてのみ語られています。

したがって、親鸞聖人は世俗における人間の生き方、あるいは念仏者の生活論については、自発的にはほとんどふれておられません。

つまり、親鸞聖人の中心思想からは、

「念仏者はこのように生きるべきだ」

とする世俗における生き方は、積極的には見出せないのです。

わずかではありますが、弟子たちからの質問に答えるという形で、書簡集に念仏者の生き方についての親鸞聖人の考え方が散見されるのみです。

これらの手紙は、善鸞事件を中心に、親鸞聖人と弟子たちとの間で往復されたものです。

手紙の内容を通して、当時

「念仏者」

が、どのように世間と関わり、そこでどのような問題に直面していたか。

またそれに対して、親鸞聖人はどのような答えをしておられたかが知られます。

すなわち、親鸞聖人の世俗とのかかわりの一端が窺えるのです。

世間的な常識から見て、法然聖人や親鸞聖人の思想の最大の特徴は、わが国の宗教と倫理を、その根底から否定したかのように見られる点にあります。

当時…、それは今日でも基本的には、ほとんど変わっていないと言うべきですが、日本人一般が求めている信仰とは、この世にまします諸々の仏や神々に一心に祈願して、現世と来世の幸福を願うことです。

そして、倫理とはその幸福を得るために、世間が定める慣習的道徳を守ることでした。

ところがその信仰と倫理の見方を、法然聖人や親鸞聖人の念仏思想は、ある意味では根底から破壊してしまったのです。

なぜなら、念仏の教えは阿弥陀仏一仏を信じることによって、どのような悪人でも往生するという教えだからです。

そこで、親鸞聖人の教えを受けた人々は、当然のこととしてわが国の伝統的な習慣を破ることになります。

そしてこれもまた必然の結果として、それらの念仏者は当時の世間一般から、厳しい弾圧を受けることになるのです。

※ 善鸞事件

親鸞聖人が関東布教から京都に戻られた後、関東における門弟たちの信仰上の動揺を鎮めるために、親鸞聖人は子息の善鸞を関東へ派遣されました。

しかし、関東で善鸞は邪義とされた専修賢善(せんじゅけんぜん)に傾きました。

現地で、ひそかに親鸞聖人より善鸞に伝授された法門教義が正統であり、善鸞自身は善知識すなわち生き仏であると訴えたため、異義異端事件となりました。

その結果、建長8年(1256)年5月29日付けの親鸞書状により、善鸞が義絶された事件 。