親鸞聖人における「真俗二諦」2月(後期)

では、この摩擦を越えるために、弥陀一仏を信じる念仏者は、世間の慣習とどのようにかかわっていけばよいのでしょうか。

この点が『御消息集』の第四通で次のように示されています。

念仏を信じたる身にて、天地のかみをすてまふさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり、神祇等だにもすてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏菩薩をあだにもまふし、をろかにおもひてまいらせさふらふべしや、よろづの仏ををろそかにまふさば、念仏信ぜず弥陀の御名をとなへぬ身にてこそさふらはんずれ、詮ずるところは、そらごとをまふし、ひがごとをことにふれて、念仏のひとびとにおほせられつけて、念仏をとどめんとするところの領家・地頭・名主の御はからひどものさふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。

そのゆへは、釈迦如来のみことには、念仏するひとをそしるものをば名無眼人ととき、名無耳人とおほせをかれたることにさふらふ。

ここでまず親鸞聖人は、念仏をとどめようとしている人々、すなわち領家・名主の

「念仏弾圧」

という行為に対して、それは

「よくよくようあること」

だとして、一応肯定的に受け止めておられることに注意する必要があります。

「ようある」

とは、そうすべき必然的理由があるという意味かと思われます。

それは、なぜでしょうか。

彼ら、すなわち領家・地頭・名主は、真実の仏法に対して、無眼人であり無耳人であるからです。

仏法の真実を見る眼を持っていないし、聞く耳も持っていない。

その彼らが。

今世俗の法によって仏法者を裁き、慣習的に社会の秩序を守ろうと試みている。

いわば、念仏者に対して

「そらごとをもうし、ひがごとをことにふれて」

念仏の教えを弾圧し、社会の秩序を保つべく懸命になっているのです。

「そらごと申す」

とは、念仏の真実に耳を傾けないで、まったく間違った判決を下すことであり、

「僻事をことにふれて」

とは、世間的に見て、念仏者が犯している

「明らかな過ちを、弾圧のためのよい口実」

として、との意に解することができます。

彼らは何も無秩序に弾圧を加えているのではなくて、念仏を停止させるそれなりの理由があったのです。

では、念仏者の

「僻事」

とは何でしょうか。

信仰面でみれば、諸仏・諸菩薩・諸神を疎かにすることであり、倫理面で見れば、世間的秩序を無視して、悪事をはたらくことだといえます。

そこで親鸞聖人は、このような念仏者の行為をまことに厳しく否定されるのです。

まず前者に関しては

「よろずの仏・菩薩をかろしめ」

さらに

「よろずの神祇・冥道を侮り捨てる」

ことは、決してあってはならないことだとされます。

言うまでもなく、諸仏・諸菩薩とは念仏者を導いて下さる方であり、天地にまします神々もまた、常に念仏者を護っておられるのです。

尊敬こそすれ、絶対にあだ疎かにしてはならないと言われます。