親鸞聖人における「真俗二諦」3月(前期)

そして後者に関しては、この

『御消息』

の後半で、次のように述べられておられます。

弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられさふらふは、めでたきやうなり、ただし、わるきもののためなりとても、ことさらにひがごとをこころにもおもひ身にも口にもまふすべしとは浄土宗にまふすことならねば、ひとびとにもかたることさふらはず。

おほかたは、煩悩具足の身にてこころをもとどめがたくさふらひながら、往生をうたがはずせんとおぼしめすべしとこそ師も善知識もまふすことにてさふらふに、かかるわるき身なれば、ひがごとをことさらにこのみて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識善のためにも、とがとなさせたまふべしとまふすことは、ゆめゆめなきことなり。

このことは

『末灯鈔』

のなかでも、第十六・十九・二十通等において、

煩悩具足の身となればとてこころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、くちにもいふまじきことをもゆるし、こころにもおもふまじきことをもゆるして、いかにもこころのままにてあるべしとまふしあふてさふらんこそ、かへすがへす不便におぼえさふらへ。

と示されるように、獲信の念仏者は当然のこととして、世間的な善、倫理道徳に違わない生活をしなければならないとされます。

では親鸞聖人は、このような社会秩序を統制する、いわゆる国家権力をどのように見ておられたのでしょうか。

今日、国家権力対反国家権力という図式より、ともすれば親鸞聖人を反国家権力の側に位置づける見方がなされることがありますが、親鸞聖人の念仏思想はそのような時の権力と常に対峙し、社会の秩序をその根底より批判していくといった思想ではありません。

例えば

「行巻」

の結びに、

それ菩薩は仏に帰す。

孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。

恩を知りて徳を報ず、理よろしくまず啓すべし。

といった文が見られますし、また

『御消息集』

の第二通には、

詮じさふらふところは、御身にかぎらず念仏まふさんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふべし。

往生の不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏さふらふべし。

わが身の往生一定とおぼしめさんひとは仏の御恩のために御念仏こころにいれてまふして、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞおぼえさふらふ。

と述べておられます。

この中に見られる

「忠君の君后に帰す」や

「朝家の御ため国民のため」

といった言葉は、決して反国家権力的な思想からは導き出せません。

そうしますと、直ちに

「では親鸞聖人の思想は国家権力の側にあるのか」

といった反論がなされそうですが、もちろんそうでないことは、

『教行信証』の

「後序」

に見られる、

主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨を結ぶ

といった、時の権力に対する厳しい批判によっても明らかです。

けれども、だからといって、親鸞聖人を反国家権力の立場にあったと位置づけてはなりません。

なぜなら、親鸞聖人が捉えた念仏の法門とは、国家権力対反国家権力といった、世俗の法と同一の次元で、相対立するような教法ではないからです。