「今をいかに生きるか」(2)5月(中期)

 では、幸福な人生に関してはどうでしょうか。

もし人の終焉が全て惨めだとすれば、だれもが最後には死を迎えるのですから、人間はどのような満ち足りた人生を過ごしたとしても最終的には不幸になる以外はないといわなくてはなりません。

けれども、たとえどのような不幸が訪れたとしても、浄土真宗の教えの特色は、その心に無限の喜びが見いだされているということに尽きます。

 ここで、現代人の臨終の姿を考えてみることにします。

現代は日進月歩といった感じで医学が発達していますから、かつては「死の病」と恐れられたような病気であっても治癒出来るようになったり、延命することも出来るようになってきました。

けれども、どれほど命が延びたとしても、やはりそれには限度がありますし、必ず「臨終」はきます。

ではその時、人はどのような心になるのでしょうか。

科学の発達によって、私たちは人類の歴史において、今までにない生の楽しみを味わっています。

また、生きるための楽しみを人はどのようにして得ることが出来るか、これに対する答えはそれこそ山のようにあると思われます。

老いても楽しく、病んでも楽しく、さらに死も心配せず楽しく迎えられるように…、そのようなことを説く教えは世間には山積みされているといった感があります。

けれども実際問題として、老・病・死は若くて健康で長生きしたいと願う人にとって、やはり苦しいことだといわねばなりません。

 そのような意味で、現代人の一つの悲劇が臨終に見られることになります。

もちろん、これまでも、その人にとっての最大の悲劇は臨終にあったのですが、現代ではそれがさらに倍加されているといえます。

なぜなら、現代人の生活から大半の苦痛は取り除かれていますので、結果的には楽しみの頂点でこの悲劇に出会うことになるからです。

今の世の中には楽しみが満ちあふれ、死はいつでも他人事であるが故に、心にはこの悲劇を受け入れる用意が出来ていません。

それ故に、死を自らのこととして意識せざるを得なくなった時に、苦悩と恐怖に同時に激しく襲われることになります。

そこで、現代の医療の場では、患者が臨終を迎えた時に、動転するその心をいかに和らげるかが大きな課題となり、ホスピスとかビハーラ等、終末医療といわれる活動が行われるようになってきたのです。

そこではいま多くの人々が、懸命になって亡くなっていく人の心を支える、そのような治療法への取り組みが真摯になされています。