最大の悲劇が臨終の時に見られるのが、私たちの偽らざる姿だといえますが、では浄土真宗の信者の人々はどうであったのでしょうか。
そこで、百年、あるいは二百年前の信者はどのように臨終を迎えられたのかということを「妙好人」といわれた篤信の人々の例から窺うことができます。
ある妙好人がいま亡くなろうとしています。
そしてそこには多くの仲間が集まってきています。
そこでみんなが別れを悲しむことになるのですが、そのとき別れを悲しんでいる仲間に対して、死んで行く妙好人が次のようなことを静かに語るのです。
「共に念仏を喜んで生かされよ」ということを集まっている人々に説くのです。
これは、現代の私たちの姿とは全く逆の姿です。
臨終を迎えるものが、元気な人々によって支えられるのではなく、死に往く人が別れに集まった人々の心を癒そうとしているのです。
浄土真宗の信仰は、死を目前にして、自らの死を悲しむのではなく、頂いた念仏の慶びを残された人々に伝え、悲しむその人々の心を慰めるはたらきをするのです。
これは、自分の最悪の場である臨終で、「ただ他のために仏法を伝える」という大乗菩薩道がまさに凡夫である念仏者によって実践されているのだといえます。
私たちはどうすれば、本当にこの世を生きることができるのでしょうか。
真の意味で、永遠の世界と自分が関わりを持つこと、この無限に大きい世界の中で、自分が永遠に慶びをもって生かされるというような心を持つことが出来たとき、私たちは初めて実際的に味わう心の安らぎとは関係なく、たとえどのような悲惨な人生に出会ったとしても、その中で自分自身、念仏を慶び、自らの輝く命の尊さを誇ることが出来るようになるのではないでしょうか。
なぜ私たちにとって念仏が必要なのか。
それは念仏によってのみ、仏によってえいえん生かされる、自分の心の無限の尊さを知りうるからです。
このように意味で、念仏のこの世界における重要性を、いま一度、念仏の世界そのものから問い直すことが必要になるのです。
そこで「では浄土真宗の教えとは何か」ということが問われることになります。