親鸞聖人の念仏思想は難解であるといわれます。
それは、私たちの理解力に問題があるからだと思われるのですが、それにもまして大きな原因だと考えられることは、親鸞聖人が語ろうとしておられる真理と、私たちが親鸞聖人から学ぼうとしている事柄との間に大きな相違があることだといえます。
親鸞聖人には主著『教行信証』を通して、これこそを明らかにしたいという一つの真理があります。
ところが、それを学ぼうとする私たちの側には別の期待感があって『教行信証』を読むものですから、ここには自分の期待していることが何も説かれてはいないという失望感が残ってしまうことになるのです。
しかも、そのわからないところを自分であれこれ理屈をつけて理解しようとするものですから、余計にわからなくなってしまうことになるのです。
そのズレを、最も大きく引き起こしているのが、親鸞聖人の念仏思想への理解の仕方だといえます。
では、親鸞聖人は念仏についてどのようなことを説こうとしておられるのでしょうか。
まず、仏教が仏道の面で「行」というときは、必ず人間の行為性をとらえます。
「行」という言葉には普通二つの意味が考えられます。
一つは「諸行無常」という言葉に現れてくる行で、これはものごとが移り変わるとか、動いていくことを意味しています。
それともう一つは「修行」という言葉で使われる行の意味です。
これは進歩する都下、向上するとかいうことです。
いま念仏行という場合は、この「修行」という行の意味で問題になるのです。
その行とは、いうまでもなく、迷っている者が仏価に至るために、自分自身で懸命に行う行為のことです。
その修行の内容いかんによって、悟れるか悟れないかが決定するのです。
したがって、仏教において「行」は非常に重要なのです。
まさに「行を除いて仏教はありえない」といえるほど、重要なのです。