「親鸞聖人の念仏思想」 (5)11月(後期)

親鸞聖人が意味される「不廻向の行」 とは、阿弥陀仏の行為を指しています。

けれども、私たちは念仏が阿弥陀仏の大行だと教えられても、その念仏はやはり自分自身が称えているのですから、どうしても阿弥陀仏の行だと見ることは出来難いのです。

そこで、この念仏を結局は自分の側に引き寄せて「念仏を称えているお陰で心が安らかになった」などというようなことを口にしてしまいます。

けれども、それは私の錯覚に過ぎません。

親鸞聖人は「歎異抄」が伝えるところによれば、念仏が地獄に堕ちる行であるか、極楽に行く因であるのか知らない。

また、念仏は行者のためには行でもなく善でもないとも言われます。

それは念仏とは私のものではないということです。

したがって、私たちは念仏を常に自分の行とし、自分の善として関わっていないか、真剣に考えてみる必要があります。

なぜなら、そのように念仏を自分のものとしてかかわっている限り、絶対に真実の信心を得ることは出来ないからです。

私たちは、阿弥陀仏の光明とはどういうものであるか実際にはわかりません。

それを見ることもふれることもできないのです。

しかしながら、念仏を称えているその人の上には、必ず阿弥陀仏の光明が燦然(さんぜん)と輝いているのです。

親鸞聖人は「念仏は人々にとっては行でもなく善でもない」と言われますが、それは私たちにとって念仏は、自らの行為性に何か価値を求めようとする時には無意味になるということです。

けれども、その反面その無意味性がわかるということは、念仏こそ阿弥陀仏の大悲が私の上に働いているということが初めてわかったということだといえます。