親鸞聖人の往生観(1)12月(前期)

普通、浄土への往生を願う人たちは二つの心で阿弥陀仏とかかわっているようにうかがえます。

言うまでもなく、建て前としては「浄土に生まれたいと思い念仏せよ、救う」と誓われる第十八願の立場で阿弥陀仏を一心に信じているはずです。

ところが、心の内はどうでしょうか。

自分勝手な願いをかけて、阿弥陀仏を拝んでいるのではないでしょうか。

この場合、第一の建て前よりも、この第二の本音の方がはるかに強いのです。

つまり、私たちは普通、阿弥陀仏に対して、今の暮らしが少しでもよくなりますようにと、現在の幸福を願い、さらには未来においても、この幸せな暮らしが続きますようにと、未来の幸福を願っています。

いわば、現在と未来の二つの利益が、私たちのいつわらざる願いなのです。

ところで、この願いは実は第十八願の教えとは、全く逆の立場にほかなりません。

したがって、こういう願いはまさしく真実からもっとも遠く隔たったものであり、仏の目から見れば、仏の願いに背いている姿であるといわねばなりません。

さて、現実においては、いずれにしても私たちは、この現在と未来の幸福の実現を阿弥陀仏に願う訳です。

そういうことを願うのが、私たちの心の構造なのです。

仏教では、この現在の生活が良くなることの求めを「福徳蔵」、その未来永遠にわたる善きことの求めを「功徳蔵」といいます。

福徳蔵は、現在の求めであることから「双樹林下往生」と呼ばれ、功徳蔵は永遠の求めであることから難思往生と呼ばれています。

なお、この二つは方便であるため、最終的には否定されるのですが、私の現実はこのどちらかをいつも願って生きているのです。

               

 「双樹林」とは、沙羅双樹という樹の林のことです。

釈尊がこの木の下で涅槃に入られたので、釈尊のようにこの世で清浄なる心になり、その清浄な心を浄土に生まれる因として往生を願うのが双樹林下往生です。

難思往生というのは双樹林下往生の不可能な者が、自分の力よりはるかに大きな、仏の大悲心にすがって往生を願うことです。

難思とは思うことが難しいという意味ですから、人間にはとらえ難い仏の大悲心は、人間の理性の心では信じることが不可能に近いのですが、それを一心に信じ清らかな心になって往生しようと願う意味だと理解することが出来ます。