双樹林下往生(1)12月(中期)

私たちはまず最初に、この双樹林下往生の姿を求めていると言えるのです。

人間は誰しも願うことは同じで、現実の生活の上でのなんらかの利益を求めているのです。

ただし、仏教に帰依している人たちが願う現実の利益と、それ以外の教えにしたがって生活している人たちの現実の利益の求めは、やはり違うのです。

同じく現実の利益を願うといってもそこに大きな違いがあります。

それでは、仏教以外の教えにしたがって生きている人びとの現実生活での願いとはどういうものなのでしょうか。

これは、いわゆる現世利益といわれているものです。

この現世利益は、仏教では厳しく否定しているのですが、普通に人びとが宗教とのかかわりを持つ場合には、たいていこの形です。

いわば、自分の願いをかなえるために、神仏に祈願するという在り方です。

この願いはさまざまです。

合格祈願もあれば、家内の安泰もあります。

病気の治癒もあるでしょう。

もっと一般的なものといえば、交通安全の御札などがあります。

こういうことをなぜ仏教は否定するのでしょうか。

それには二つの大きな理由があります。

一つはそれらが、仏教の原理である因果の道理を無視しているからです。

つまりそこでは、人間が自己の責任において、物事の結果を引き受けていくという、真面目な態度を放棄させるおそれがあるからです。

平生は遊んでいて、非常の事態に出会うと、なりふりかまわず、神仏にすがるという姿がここに見られます。

それともうひとつは、かりに神仏に願いをかけ、何事かが成就したとしても、そこには永続性がないということです。

例えば病気の治癒を願って、幸い神のお恵みによっていったん病気が治ったとしても、その人が死を免れるということはありえないのです。

そうだとすれば、人間のそのときどきの勝手な願いを満たしていくことは、本当の意味ではその人間を幸福にすることにはなりません。

仏教はその点を見抜いているのです。

それは、単に苦しみを先にのばしているに過ぎません。

そこでこのような現世利益の祈願を、仏教は厳しく否定するのです。