「親鸞聖人の往生観」(3)2月(後期)

親鸞聖人は、この真実の法を「浄土の真宗」し呼び、その法の働きを大行と呼ばれました。

なぜ聖人は、この大行を究極の法だと見られたのでしょうか。

一声の南無阿弥陀仏が、聖人自身に、いかなる境遇に陥ろうとも、もはやびくともしない生の喜びを与えてくれたからです。

まさしく南無阿弥陀仏がすべての生きとし生けるものを救う唯一絶対の法であり、その絶対無二の法に生かされる人間になることが、私たちにとって最も重要な道になるのです。

私たちはここで、求道の方向に一つの大きな逆転現象、コペルニクス的転回の起こっていることに気付かなければなりません。

いうまでもなく、仏道は悟りへの道ですから、私たちはその悟りの心を、私たちの中に求めているのだといえます。

平たく言えば、無限の喜びであり、安らぎの心をいかにして得るかということです。

そこで、あらゆる手段を使って「喜び」を得るための材料を集め、あれこれはからって、確固不動の無限の喜びを築こうとしているのです。

私たちが抱いている最大の関心事は、ただこの私の「心」をどうするかと言う事なのです。

清浄にして安らかな心を得るために、みずからの主体のすべてを投げ打って、その心をつかもうとしているのです。

それが先の双樹林下往生や難思往生の求め方です。

けれども、そのような確固不動の心や、永遠の安らぎの心など、私のどこを探しても存在しません。

もしそれに似た心が作り出されたとしても、非常の事態が生じますと、どのような安らぎも、いとも簡単に吹き消されてしまうからです。