「親鸞聖人の往生観」(3)3月(前期)

 もし、私自身がいかに動転したとして藻、この私をしっかりと抱いている教えに、私が遇うことができていれば、ここにはいかなる問題も生じなくなってしまいます。

心は常に不確かなのですが、不確かなままで、この心を確かにする言葉をみずからの内に持つことになるからです。

それは自分の力で、自分の心に確固不動の心を作り出すことでも、自分の外に無限の力を求めて、自らの心を確固不動にすることでもありません。

そういった心の確かさを求めるのではなくて、限りなくこの私を抱いている、法の確かさが、私自身に明らかになればよいのです。

「真理の一言が悪業を転じて善業と成す」

という言葉がありますが、南無阿弥陀仏の真実に出遇うことが、私たちにとって、すべてになるのです。

 したがって私たちが、その南無阿弥陀仏を心に宿すということは、その法の真実である阿弥陀仏の大悲の全体が、しっかりと自分の心に戴かれていなければならないのです。

言葉をかえれば、私がいかにその真実の法に出遇うかということなのですが、それがとても難しいということになるのです。

この場合重要なことは、一つの澄みきった「心の状態」をとらえようとすることではなく、その法とは何かが明らかになることと、人はいかにしてその法に出遇うかということになります。

前者が「行」の問題で、後者が「信」の問題になります。

 それはさておき、もし自分がこの法に、常に照らされているとなると、もはや現在とか未来という時間の流れは、全く問題ではなくなってしまいます。

そういう現当二益の世界に右往左往する心を、自分は超えてしまうことになるからです。

自分自身、どのような状態におかれても、自分の心は仏の心で満たされているのです。

けれども、だからといってここで勘違いしてはなりません。

人間としての苦しみや悲しさ、不安というものが、全くなくなってしまうというのではないのです。

それは煩悩のなさしめるわざなのですから、どこまでもなくなることはありません。

しかし、それにもかかわらず、そういう煩悩のさなかにあって、しかも私には、その法を無限に喜ぶという世界があるのです。

ほのぼのとした法の世界に生かされているという喜びを持つことが出来るのです。