「親鸞聖人の往生観」(3)3月(後期)

真実の法に、自分が照らされていることを知るということは、仏の大悲心を信知することができた姿だといえます。

ときにここで、「仏の恩とは何か」ということが問題したいと思います。

 浄土真宗では、古来「報恩」ということを重要視してきました。

そこで、念仏を称える時も

「報恩行の念仏でなければならない」

とか、

「救われた有り難さから感謝の思いで念仏を称えよ」

といったことが、繰り返し教えられてきました。

けれども、そのような念仏は、本当の意味での報恩の念仏ではないと思われます。

なぜなら、そこでの念仏は

「こうであらねばならない」

と規定されているのですから、これはいわば無理強いされて称える念仏だといえなくもありません。

また、このように本人の意思に反して、強制されるような報恩など実はありえないのです。

たとえば、親が自分の子どもに向かって

「お前は親のお蔭で大きくなったのだから、親の恩というものを知らなくてはならない。

と言っても、子どもが親の恩を実感することは容易なことではありません。

また、このように強制されたことによって、報恩の思いが湧いてくることなどないのです。

しかしながら、わざわざ

「親の恩を知れ」

などと子どもに言わなくても、親の恩が何かのはずみで子どもに明らかに知られると、子どもは自然と親の恩を報じるようになるものです。

仏の恩も、まさにそれと同じであるはずです。

私たちに、仏の真実の理が明らかになると、何も言われなくても、私たちはおのずとその徳に報ぜずにはおれなくなります。

 親鸞聖人は、ものの道理が明らかになることによって、初めて恩が知られることになり、またそのことによって必然の道理として徳を報ずる道が可能になるのだと教えて下さいます。

 したがって、私たちにとって何よりもまず重要なことは

「仏の大悲心を信知すること」

だといえます。

言い換えると、阿弥陀仏の救いを信じ、往生が確かになることが大切なのです。

それが獲信なのですが、獲信して初めて報恩・感謝の念仏を称えるようになるのです。

 そもそも、阿弥陀仏は私たちに

「感謝の念仏を称えよ、救う!」

というようなことを誓ってはおられません。

「念仏せよ、救う!」

と誓っておられるのです。

したがって、救われていることが明らかになった時、自然に感謝の心が出てくるのです。

このような意味で、報恩の念仏とは、救われているからこそ称えられるのだといえます。

信心も何もなしに、阿弥陀仏と向かい合って無関心でいる者が、感謝の念仏など称えられるはずなどありませんし、ましてや阿弥陀仏を信じないで、そのまま救われていることもないのです。

 親鸞聖人は

『阿弥陀仏の「念仏する衆生を必ず浄土に往生せしめる」という本願を信じて、念仏する衆生は必ず(往生せしめられ)仏になる』

と説いておられます。

「信心正因・称名報恩」

とセットにして語られますが、

「信心=称名」

であり、報恩とはただ単に口に念仏を称えることではなく、私が頂いた獲信の喜びを周囲の縁ある人びとに伝えていくこと、念仏を讃嘆していくことだといえます。