『歎異抄』の第三条に
「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」
という言葉があります。
この思想は、これまで一般には親鸞聖人の独自のお考えであると言われてきました。
ところが、近年親鸞聖人の師匠であられる法然上人の伝記に同じ言葉が見られるということで、これは本来、法然上人がおっしゃった言葉だと言われるようになりました。
伝記に記載してあるのですから、おそらくその通りかと思われます。
ただし、ここで注意しなければならないのは、その法然上人の言葉は、法然上人独自野も野ではなくて、浄土教の教えそのものが、実は
「悪人往生の教え」
だということです。
聖者や善人は、別に阿弥陀仏の本願に頼らなくても、仏になる道は存在します。
けれども、悪人、とくに極悪人は、阿弥陀仏の本願による以外、仏果に至る水戸は存在しません。
阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称え、救いを求める以外、極悪人の救われる道はないのです。
とすれば、阿弥陀仏は殊に誰を救おうと願われているか明らかになります。
その本願は当然、阿弥陀仏に頼るしか道のない者こそ救おうとしておられるのです。
阿弥陀仏の大悲はもともと、悪人に向けられているのであって、悪人こそが救われる、これが浄土教の最も大切な教えの一面になるのです。
したがって、法然上人が「悪人こそが救われる」と教えられたのは、当然のことだといえるのです。
ところで、ここで大きな問題が生じます。
現在の浄土真宗と浄土宗の、教えの一つの大きな違いは、浄土宗は善人往生を説き、浄土真宗は悪人往生を説くということです。
浄土宗も浄土真宗も、その根元は法然上人の教えにあり、その流れを汲む宗派です。
そして共に、法然上人から悪人往生の教えを聞いているのです。
それがなぜ、一方が善人往生を説く教団に、他方が悪人往生を説く教団に発展したのでしょうか。
これは二つの宗派の一方が、法然上人の教えを聞き誤ったということではありません。
両者とも、法然上人の教えをそのごとく一心に聞き、教えのごとく浄土の教えを実践したのです。
では、それがなぜ一方が善人往生に、他方が悪人往生にと、大きく二つに分れたのでしょうか。
その違いは何かが、ここで問題になります。