『渇いた大地に雨 渇いた心に法雨』

経典に「降る雨は同じであっても受ける草木によって異なる」という言葉があります。

これは、

『すべての人々を我が子のように等しく慈しむ仏の大悲は平等であるが、人びとの性質の異なるのに応じて、その救いの手段には相違がある。

ちょうど、降る雨は同じであっても、受ける草木によって、異なった恵みを受けるようなものである』

という経文の一節です。

また、経文には「牛 水を飲めば乳となし、蛇 水を飲めば毒となる」という言葉もあります。

水は私たちの生命を保つ一つの根源です。

清らかな水を飲み、生物は生きているといえます。

ところが、同じ水を飲みながら、牛が飲めばその水が乳となって他のものを生かし、蛇が飲めば毒となって、他のものを殺してしまいます。

同じように

『一つの教えを聞いても、もし智者が学べばこの教えが覚りに導くが、愚者が学べば同じ教えがそのものをかえって迷わせてしまうことになる。

だからこそ、人は仏法を一心に学び、その教えにしたがって、過ちのないように行道に励むことが大切なのだ』

と説かれるのです。

渇いた大地に雨が降り注ぐように、私たちの渇いた心に仏さまの教えの雨は降り注いでいます。

けれども、その「渇き」が自分の欲望を満たすことや、楽しい生活が出来る方法を求めるものであると、せっかくの仏法の雨も私たちの心を潤すことなく、ただ心の表面を流れ去ってしまいます。

私たちは誰もが老い、病を得て、死んでいくのですから、地位・名誉・財産などの幸せを手にしたとしても、所詮それは一瞬のことに過ぎず、それらは自らの死によってすべて粉々に打ち砕かれてしまいます。

私たちがこの人生において「問うべき問い」とは、「死によっても砕かれない確かな幸せとは何か」という問いであり、そのような真実を求める心の渇きを、仏さまの教えは潤して下さいます。