一般に「他力」という言葉は、
「他者をあてにすること」
という意味に理解され、消極的なあり方として否定的に用いられているようです。
確かに、自分は何の努力もしないで他人の力をあてにすることはあまりほめられたこととはいえません。
けれども、よく考えてみますと他者をあてにしているのは私なのですから、やはりそれは「自力」だと言えはしないでしょうか。
つまり、他者をあてにして「何もしない」ことを「している」のはこの私自身なのですから。
ところで、この「他力」という言葉が誤解されている一番大きな理由は、言葉の主体者が私だと誤解されていることに起因していると思われます。
実はこの言葉の主体者は、私ではなく仏さまなのです。
したがって、この言葉は
「仏さまが他(である私たち)を救うはたらき」
を意味しているのです。
「他力」とは、「流転」といわれるような、いつ始まったのかそしていつ終わるかわからない、しかもいま自分がその迷いの只中をさまよい続けていることにさえも気付かない私を、私が願うに先立って、願うと願わざるとにかかわらず、既にして
「念仏せよ、救う」
とよびかけて下さる尊い願いのはたらきを意味しています。
このような意味で、「他力」とはまさに
「私を支える仏の力」
であると味わうことができるのではないでしょうか。