穢土を包み込んで悟りの世界へ
その浄土といいますのは、悟りの智慧(ちえ)によって穢土を作っている私たちを照らしだし、本当の意味での反省、懺悔をさせる、そういう光なんですね。
ですから、悟りの智慧のことを仏法ではよく光にたとえられます。
『仏説無量寿経』というお経を読ませて頂くと、仏さまの智慧の光を十二の光にたとえておられます。
親鸞さまも『正信念仏偈』にそのことを書いておられますが、
無量光、
無辺光、
無碍光、
無対光、
光炎王、
清浄光、
歓喜光、
智慧光、
不断光、
難思光、
無称光、
そして最後に超日月光
と呼ばれます。
これらの光は、仏の悟りの智慧を表しているんですね。
光がさすことによって、迷いの闇は消えていく訳ですが、そういう象徴的なことだけではなく、実際に生きる中で私たちはどのように迷い、どのように餓鬼道に苦しみ、畜生道を徘徊し、そして挙げ句の果てに、それら苦しみの集大成ともいえる地獄をつくってしまっているなでしょうか。
『歎異抄』というお書物の中に、親鸞さまがご自身の生き方を述べられた
「地獄は一定すみかぞかし」
というお言葉があります。
自己を厳しく見つめられた中で、私のような者は地獄行きしかできない生き方をしているじゃないかという、深い懺悔の中から出てきたお言葉です。
親鸞聖人のこの深い反省はどこから出てきたのでしょうか。
それは浄土という悟りの世界の阿弥陀さまの智慧の光に照らされて起こってきた訳です。
穢土と浄土というのは、決して相対する世界ではありません。
浄土は人間の苦しみだけでなく、他の生物まで苦しめ殺すというようなことに満ちている世界、すなわち穢土をあまねく照らし出して包み込み、何とかして悟りの世界に変えて行きたいという阿弥陀さまの願いが表された仏の国なのです。
つまり、穢土を包み込みながら、悟りの世界に変えて行くというのが、浄土のはたらきです。
今もいのちを頂いて生かされている日々ですが、その中で悟りの智慧を少しずつ頂いて、浴にこもり、怒りや苦しみにくらんだ目が開かれて行く。
そして、悟りの世界に一歩一歩、進ませていただく、それがいのちを頂いて生きている私ども人間の在り方なのではないでしょうか。