「穢土と浄土」(中旬)

多くの生き物が行き場を失わないために

 私たち人間は多くの環境破壊をしています。

海や山を破壊することによって、私たちを支えてくれているたくさんのいのちが虐殺されます。

そうしますと、人間自身がまともに生きていけない世の中になっていくわけです。

その最たるものが、地球温暖化という状態です。

地球温暖化なんて、遠い世界のことのように思われる方もあるかもしれませんが、実はもう目の前まで来ている大きな問題なんです。

一九九七年に京都議定書が決められました。

今年の一月一日から五年間、二○一三年の暮れまで京都議定書を実行していきましょうという約束ができている訳です。

これは、もっと早くから取りかかっておかなくてはならない問題だったんですが、日本は一九九○年、二酸化炭素を六バーセント減らそうと約束したにもかかわらず、二○○五年の段階で逆に六・二パーセント増えてしまっているんです。

これは、しっかり取り組んでいないという証拠ですよ。

これでは、地球の危機がますます深まるだけです。

この地球上のたくさんの生き物が行き場を失ってしまう訳です。

そういうことが起こらないようにするためには、我々が早くから餓鬼道、畜生道、修羅道から抜け出さないといけません。

 地球上だけでなく、この宇宙で起こる出来事の結果は全て、いろんな原因と無数の条件とが寄り集まって生まれてきています。

例えば、人間が一人生まれてくるにはどれだけの条件が揃わないといけなかったのか。

ちょっと考えてみただけでも、数えきれないほどの無数の条件が揃わないと、一人の人間は生まれてことないことが分かると思います。

 また、たとえ生まれてきたとしても、一人の人間が一日を生きて行くために無数のいのちを頂いて生きている訳ですよね。

今晩、食事をされる際、どれだけのいのちを頂くか数えてみて下さい。

お米、お野菜、お魚、お肉、鳥。

たくさんのもののいのちを頂いて、やっと一日をつないでいる訳です。

決して自分の力で生きているのではないのです。

 たくさんのいのちを頂く。

そういうご縁によって、生かされている訳です。

生かされている身ですから、我を張ったらいけないのです。

いのちを頂いているものに対して、申し訳ないことです。

ですから、ご飯を頂くとき、私たちは手を合わせるんですよ。

これは私のためにいのちを捧げてくれたものへの深いお詫びの印なんです。

 もう十五年も前のことですが「本願寺新報」という新聞に、北海道の函館のある母親が投稿した詩が掲載してありました。

どういうものかといいますと

「カニを食べた。

カニの一生を食べてしまった。

カニに頂いた今日の私のいのち。

芋を食べた、芋の一生を食べてしまった。

芋に頂いた今日のいのち。

それをおもうと、手を合わさずにはいられない」

という内容でした。

 この詩は、私の心にグサッと突き刺さりました。

多くのものによって生かされている私のいのち。

であれば、私もまた他のいのちを生かしてはたらきをさせてもらわないといけないのです。

それが穢土を浄土へとひっくり返して行く、大きな原動力になる訳です。