『南無阿弥陀仏 私の口から如来の願いがこぼれる』

私たちは、自分が掛けている願いについては、しつこいくらいとてもよく知っているものですが、その一方自分に掛けられている願いについては、なかなか自ら気付くということは難しいようです。

例えば、私たちはそれぞれに名前を持っていますが、その私の名前とは単に他の人と区別するための記号の役割だけではなく、私に対する親の願いが込められたものです。

ところが、日頃そのことに深く頷いているかというと、殆どの場合誰かに呼ばれたら返事をするだけのことで、その願いについては特に気にもとめていないというのが正直なところです。

さて、親鸞聖人が

「真実の教」

と示される

「仏説無量寿経」

によれば、南無阿弥陀仏という仏さまは、菩薩であられた時の名を法蔵といい、世自在王仏のもとで修行をなさった時に四十八の願いを立てられ、その全てを成就されて仏に成られたと説かれています。

その中の第十八番目に誓われた願いが特に重要で、そこでは

「わたしが仏になったとき、あらゆる人々がまことの心で信じ喜び、わたしの国に生まれると思って、たとえば十声念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。

ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

と誓われています。

このことを親鸞聖人は、いま私が称えている

「南無阿弥陀仏」

という念仏の声は、私が自らの力によって称えているのではなく、実は阿弥陀如来がこの私の上にはたらいて

「念仏せよ、救う!」

と、私をよんで下さるよび声なのであると教えておられます。

ところが、私たちは子どもの頃から教育によって科学的なものの見方をすることを刷り込まれていますので、私の口から出ている念仏の声が、阿弥陀仏そのものであると理解することは到底出来ません。

ましてや、南無阿弥陀仏が

「念仏せよ、救う!」

という阿弥陀如来の願いのはたらきそのものであると理解することはきわめて困難だと思われます。

けれども、阿弥陀如来は、私たちが理解してもしなくても、見捨てることなく常に照らし続け、迷いのいのちを生きる私たちを仏に成らしめることを願い、この私の念仏の声にまでなって、

「念仏せよ、救う!」

と、よび続けていて下さいます。