インドの挨拶はお互いが合掌をして
「ナマステ」
と言います。
この言葉は古代インド語の一つ、サンスクリット語に語源を持ち、永い永い年月を経た現代でも、インドの人々の挨拶として変わらずに語り継がれています。
「ナマス」は敬う、
「テ」は貴方。
「私はあなたを敬います」
「あなたに出会えて光栄です」
など、たくさんの意味がこの言葉には込められてあるそうです。
また、誰もが手を合わす中で挨拶が交わされるところにも、何とも言えない大きな深みがあるように思われます。
この
「ナマステ」
と、私たちのお名号
「南無阿弥陀仏」
も、その言葉の語源は同じなのです。
「南無」
とは、サンスクリット語のこの
「ナマス」
の音が、中国に伝わって漢字に音写された語で、元来の
「帰依する」、「敬う」
などの意味を持ち、また
「阿弥陀」
という語も同じくサンスクリット語の
「アミターユス」(無量のいのち)、
「アミターバ」(無量の光)の
「アミタ」が
漢字に写されたものです。
つまりは、お念仏は
「阿弥陀仏に帰依する」
ということなのです。
ところで、お念仏は私が称え、私の口で
「南無阿弥陀仏」
と阿弥陀さまのお名前を呼んでいることだと考えられています。
ところが、親鸞さまは、その逆で、お念仏とは阿弥陀さまの方から私を呼んでいてくださるよび声であるといわれます。
つまり、私の口を通して、阿弥陀さまが私によび掛けていて下さるのだとおっしゃるのです。
ここがまさに、名号が不可思議といわれる所以です。
私が称えているはずであるにもかかわらず、称えている私が阿弥陀さまからよばれているとは…。
とても大切なことなのですが、そう聞かされても、
「えっ、それってどういうこと?」
と、思わず頭をひねりたくなるような、なかなか分かりづらいところだといえます。
『無量寿経』
というお経によれば、阿弥陀さまは
「あなたを救いたい」、
「あなたに寄り添いたい」
と願われています。
その「願い」の届けられた「結果」が、私が今お念仏を申す姿そのものです。
もちろん阿弥陀さまを礼拝し、お念仏申すのはこの私に違いはありません。
ですが、お念仏は
「私が称える」
という私の意志を問題とするのではなく、お念仏そのものが、阿弥陀さまの願いの成就した結果であるといただくことが大切なのです。
不可思議とは「思議すべからず」
つまり
「頭で理解しようとしてはならない」、
言い換えると
「自分には理解できないということを理解せよ」
ということです。
したがって、不可思議は不可思議のままに、阿弥陀さまの側から願われていた私であったことに素直に頷き、そのお慈悲の心に触れさせていただきたいものです。