『わが思いどこまでも転ぶ仏手(みて)の中』

南無阿弥陀仏という仏さまは、そのはたらきから無量光、不可思議光、尽十方無碍光など、しばしば光の仏として表現されています。

それは、仏教では智慧(ちえ)を光のはたらきを通して説き明かそうとしていることによります。

これに対する、智慧のない姿は闇ということになります。

そこで、闇は私たちの愚痴(ぐち)を物語るものとしてとらえられています。

これは改めて言うまでもないことですが、闇にたとえられるあり方は、私たちの何を指し示しているかというと、手さぐりの生活です。

光が消えて真っ暗になると、私たち人間に出来ることは手さぐりだけです。

ここでいう手さぐりの生活とは、自分の手に触れたものだけを全てとし、よりどころとする生き方のことです。

言い換えると

「わが思い」

に凝り固まった生き方ということです。

自分の体験、自分の思想、自分の考え、自分の思い、そういうものだけをたよりとして生きて行くあり方が、闇として表される

「手さぐりの生活」

といことなのです。

したがって、仏教において問題にしている

「愚痴」

という迷いのあり方とは、決して何も知らないということではありません。

決して自分の体験を離れることが出来ない、また自分の考えを離れられないあり方のことです。

つまり、自分にとって都合のよいことだけを取り入れ、不都合なことは責任転嫁していくような、自身の現実の全てを直視して認めることの出来ない弱さを言い当てたもので、それを

「愚か」

という言葉で表しているわけです。

ですから、仏教で説いている

「智慧」

とは、何でもかんでも分かるということではありません。

そのような身勝手な自分の体験を超えられるということです。

自分の体験したことだけを絶対的なものとして、自分の思いだけを唯一正しいこととして生きている、そういう私のあり方を打ち破り、事実を事実として認め、その事実にしたがって生きて行ける力を、仏教では智慧という言葉で言い表しているのです。

 けれども、私たちはやはり自分の体験というものによりかかって生きようとします。

親子の間、世代間の断絶というものも、結局は体験の断絶に基づくものです。

そして、お互い一人ひとりが手さぐりの生活である限り、一緒にいても思いはバラバラで、そこには人と人とのつながりというものはありません。

なぜなら、わが思いに固執してお互い手さぐりで生きているからです。

 私たちは、仏さまの智慧によって、私の生き方の全体が手さぐりの生活であり、私が正しいと思っていることはどこまでも私の体験に過ぎないと気付くことができるのです。

つまり、智慧によって世の中の全体を見渡せるようになり、自分の立場というものを離れて一人の人間としての姿が見えてくるのです。

 人間というものの全体が見渡せるということは、実は自分のあり方の中に、いろいろな矛盾をみるということと同じです。

手さぐりの生活というのは、自分の体験は絶対であり、自分の考えは間違いないということで割り切っていて、自分というものに矛盾を感じることがありません。

ですから、闇の中にいる方が、言い換えると自分の思いに凝り固まっている方が安心しておれるのです。

それは、問題を抱えずに生きて行けるからです。

あるいは、うまくいかない時には、他人のせいにしたり、環境を恨んだりするなど、とにかく責任を周りに押しつけて、自分というものには畏れも持たずに生きていくことができるからです。

 このように、どこまでもわが思いによって転がり続ける私たちですが、そのような私を見捨てることなく、常に照らし、喚びかけて下さる仏さまが、南無阿弥陀仏という仏さまなのです。

その仏さまの願いは、はたらきは、ひとえに仏法を聞き続けるところに明らかになります。