人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを
「不思議」
といいます。
例えば
「世にも不思議なことだ」
などと言って、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味を持ったりします。
宗教の本質も、その不思議性にあると考えて、人はしばしば宗教に、あるいは宗教者に人智を超えた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとするときがあります。
しかし仏教は、基本的に自覚の宗教です。
それは、仏の智慧に照らして自己を凝視し、自らの存在に目覚めていく教えです。
親鸞聖人は、奇跡や超常現象などの怒ることが不思議ではなく、仏法そのものが不思議であるといわれます。
具体的には、阿弥陀仏が、すべての衆生を仏の国に生まれさせたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚を取らない、と誓われた本願の他に、真の不思議はないといわれるのです。
さらに、仏の本願にひとたび遇うことで出来れば、どのような人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳をこの身に賜って生きるものとなると言われます。
空しく過ぎ去る人生を転じて、仏の功徳を生きる人生の誕生、このような生の転換の他に、不思議、不可思議とよぶ事実はありません。