今日の医学では、遺伝子ということがもっとも脚光を浴び、華やかな研究分野になっているのだそうです。
そしてその中には、人間のいのちの営みがすべてこの遺伝子によるとしたらなら、人間がみな老いて死んで行くということが起るのは、人間に老いて行くことをもたらす遺伝子、あるいは死んで行くことをもたらす遺伝子が組み込まれているからに違いない。
だとすると、そのいのちを老いさせて行く遺伝子や死に至らしめる遺伝子を取り除いたら、もしかすると
「人間は年をとったり、死ななくて済むようになるのではないか」
ということを真剣に考えて、一生懸命に研究している人たちがいるのだそうです。
もしその研究が実を結ぶことになったら、私たち人間はいつまでも若く、死ななくても良いことになります。
けれども、私たちは何百年何千年経っても
「死なない」
となったら、いったい人生はどうなるのでしょうか。
今日の社会では、人間の平均寿命が十年、二十年延びたというだけで、どう生きるかということが大きな問題になっていますが、それがまったく死なない、あるいは
「死ねない」
となったら…。
思うに、もしそうなったとしたら、先ず
「今日一日」
というものが、私の人生にとって何の意味も持たなくなってしまいます。
なぜなら、今日一日がどうあろうと、私たちは永遠に生きて行くのですから。
しかも、その何の意味もない毎日を、永久に続けていかなければならないとしたら…、おそらくそこには生きているということに何の感動も感激も持ち得なくなってしまうのではないでしょうか。
ただし、この研究が実を結ぶとしても、それはまだ遠い将来のことです。
少なくとも、私たちは今、それぞれ老いて、やがて死んで行くという事実を
「いのち」
の事実、また人生究極の問題として、個々に抱えて生きていかなくてはなりません。
ところが、私たちは
「死」
から目をそらし、死を忌み嫌って、ひたすら
「生」
に執着する在り方に終始しています。
日常的には、ただ何となく、
「まだまだ自分だけは死なない」
つもりで生きているかのようです。
そのうち、お金がたまったら
そのうち、家でも建てたら
そのうち、子どもから手が離れたら
そのうち、仕事が落ち着いたら
そのうち、時間のゆとりができたら
そのうち、そのうち、そのうち、……
出来ない理由を繰り返しているうちに、
結局、何もしなかった
むなしい人生の幕が降りて
頭の上に寂しい墓標がたつ
そのうち、そのうち、日は暮れる
今来たこの道、帰れない
振り返ってみると、いつも忙しさを理由に
「そのうち…」
と口にすることがありますが、これは
「いのち」
がいつまでも続くものと錯覚しているからではないでしょうか。
「限りあるいのち」
を生きていることに目覚め、今を、一日を、そしてかけがえのない一生を大切に生きたいものです。