「出会いに感謝〜思い続けたオリンピック〜」(中旬)両親に泣きながら電話で話したこともある

甲南高校には、それぞれのユニフォームで走る部活動対抗リレーというのがあって、僕は3年生のとき、選手宣誓を任されました。

そのころの僕は、全国ランク50位くらいだったんですが、相当の目立ちたがり屋だったものですから、水泳部の顧問に促されたこともあって、全校生徒の前で

「オリンピックに出るぞ」

と言ってしまったんです。

高校時代にはそんな思い出があります。

高校3年間、僕は表彰台には乗れませんでしたが、100メートルでは全国4位、200メートルでは6位にまでなれました。

それでいろんな大学から勧誘が来て、僕の中に教師の夢を追うか、水泳で勝負するかで、とても大きな迷いが生まれました。

そのときにも大きなアドバイスをくれた人がいます。

父でした。

父のお蔭で、僕は改めて自分の中の水泳と教師に対する気持ちを考えることが出来たんです。

そして筑波大学に進学した僕は、前の日本記録保持者の先輩がいる水泳チームに入り、その人の背中だけを見て一生懸命練習しました。

そうして頑張っていくうちに、大学2年で世界大会に初出場して6位入賞したり、その年の日本学生選手権で3位になるなど、すごく伸びていきました。

でも、全てがうまくいった訳ではありません。

アテネのオリンピック選考会です。

そのころの僕は、記録が伸び続けて、とても順調に来ていたので、オリンピックにも普通に出るんだろうなという感覚で臨みました。

しかし、結果は敗退。

オリンピックに出ることは叶いませんでした。

その後、再びオリンピックに向けて水泳を続けるか、けじめをつけて鹿児島で教師になるかで大いに悩みました。

でも、オリンピックに出たいという強い思いを原動力にして、僕は社会人で水泳を続けることを決意します。

そしてホリプロと出会い、社会人として練習を始めました。

しかし、このときから初めてのスランプに陥ります。

何度水泳をやめようと思ったかわかりません。

やはり、取り組み方に違いがあったんです。

まず大学時代は仲間が多かったですね。

一緒に頑張る同期や、目標とする先輩とかいましたし、練習の成果を試せる試合も多かったんです。

でも社会人になると、同期はどんどんやめていきました。

後輩には弱音をはけませんし、相談できる相手がいなくなって、両親に泣きながら電話をしたこともあります。

試合数も少なくなります。

日本選手権で結果を出せないと、夏の国際大会以降の試合が一切なくなってしまうんです。

それまで一生懸命やってきても、負けてしまったら、試合で練習成果を発表できないままで次のシーズンを迎えなければなりません。

さらに、水泳は陸上のマラソンなどと違い、いくつも選考会はありません。

日本選手権大会の1試合のみで、しかもたとえ予選で世界記録を出したとしても、決勝で2位以上になれなかったら代表にはなれないんです。

1試合で結果を出さなければいけないというプレッシャーと、大学生と社会人の気持ちの違いですごく悩んで、しかも大学4年まで伸び続けてきた記録も、オリンピックの決勝までの3年間は伸びませんでした。

最も記録が出てほしくて、勢いをつけておきたい時期だったのに、本当に不安になりながら練習をしたのを今でも覚えています。