私たちは、自分のことは誰よりも一番自身がよく知っていると思っています。
しかも、自分の中に正しい私がいて、その正しい私が物事を見て、考えて判断を下しているので、私の言動は常に正しいことに包まれているかのように思っています。
そのため、周囲の人が自分のことを認めてくれなかったり、あるいは社会的にも評価をされなかったりすると、周囲の人々をあるいは世間を恨んだりしてしまうことさえあります。
けれども、私たちはいったいどれほど自分のことを客観的に見ることが出来ているでしょうか。
既に
「分かっている」
という思いからは、決して
「問いの心」
は生まれてはきません。
それだけに、私たちはともすれば自分だけの思いに閉じこもってしまい、自らを省みることがなかなか出来ないでいるのです。
しかも、周囲の人々もなかなか本当のことを口にしてはくれません。
それは自分でも他人に対してあまり本当のことを言わないのと同じことです。
なぜなら、私たちは誰にでも欠点があり、決して立派ではなかったりするからで、このような意味で
「いつも本当のことを口にしている」
という人はおそらく友だちが少ないのではないでしょか。
仏さまの教えとは
「この私を明らかにするために説かれ教えだ」
ということが出来ます。
そうしますと、そこで明らかになる私の姿は、愚かで自己中心的で、迷いに満ち満ちたなんとも情けないありさまです。
したがって、自ら進んで仏さまの教えに耳を傾けるということは、なかなか容易なことではありません。
他人の悪口は嘘でも面白いものですが、たとえ本当のことではあっても自分について耳の痛いことを聞くのはなるべく避けたいものだからです。
しかしながら、そのことを避けようとするばかりでは、いつの間にか自分の姿を見失ってしまうことになりかねません。
自分を省みるこころを失ってしまうとき、私たちは自分のあるべき姿そのものを見失ってしまうことになるからです。
自分のあるべき姿を見失わないためにも、努めて仏法の語りかけに耳を傾けたいものです。