よく、昔は
「悪いことをすると地獄へいくぞ」
と聞かされました。
積み重ねてきた様々な罪の報いを受ける場所。
それを地獄と呼んだのです。
地獄というとまっさきに思い浮かべるのは、地獄絵図です。
そこには、鬼によって刃物で肉体を切り刻まれたり、火に焼かれたりして死ぬほどの苦しみを受ける姿が描かれています。
言語を絶する苦しみの世界が想像できます。
人間としての苦痛は、死んだらおしまいであるのに対して、地獄では、悶絶(もんぜつ)すると再び生き返ってさらに死に至る苦しみを受ける、という運動が繰り返されるのです。
そういう苦痛を受けねばならないのは、
「心はそれ第一の怨(あだ)なり。
此(こ)の怨(あだ)、最も悪と為(な)す。
此の怨、能(よ)く人を縛(しば)って閻羅(えんら)の処(ところ)に送り到(いた)らす」
と、罪人を責めながら地獄の獄卒(ごくそつ:鬼)は叫(さけ)び続けると源信僧都(げんしんそうず)の
『往生要集(おうじょうようしゅう)』
にあります。
殺人事件等の悲惨なニュースが取り上げられると、私達は
「あんな悪人はいない」
と他人事としてそのニュースを見ます。
それは、自分が刑法に触れるような殺人等をしていないのであんな悪人はいないと他人事としてみることができるのです。
確かに刑法上は犯罪を犯さなければ罪には問われないのです。
しかし、地獄では
「心は怨(あだ)」
であり
「最も悪」
なのです。
例えば、実際に人を殺していなくても、その言葉によって相手を傷つけてみたり、或いは
「自分の幸せを邪魔するあんな人なんかこの世にいなければいいのに」
と時に心の中で人を排除することさえあるのです。
それはまさに殺人へと繋(つな)がるのです。
無意識のうちにたくさんの人々を心の中で排除している私の姿・有り様が受け取れます。
つまりこうしてみていけばすべての人々に地獄行きの資格が備わっているといっても過言ではないのです。