最近、こどもを虐待するニュースが多く見られますね。

最近、こどもを虐待するニュースが多く見られますね。

この手のニュースはひとつ報道されると連鎖的に伝えられる部類のニュースですので虐待は日常的なニュースであるということでしょう。

私にも4歳の娘と4カ月になる赤ん坊がいます。

正直、虐待する親の気持ちが分からなくもありません。

自分の時間は制限されるし、思い通りに物事が進まないことも多くイライラします。

しかし私は、虐待するどころか手を出したこともありません。

こどもを叩く叩かないの教育方針は、各々の家庭で分かれるところではありますが、私の家庭では叩くことはありません。

それは、こどもは

「授かりもの」

だと思うからです。

齢(よわい)を重ねられた方々は、

「こどもは授かりものだ」

と口にしてこられました。

それが、いつからでしょうか?

こどもは

「作るもの」

に変わってしまいました。

私の年代(30代)では、普通に

「こどもを作る」とか

「こどもはいらない」

なんて言い方をします。

あなたは、いかがですか?

「授かる」と

「作る」

では大きく違いますよね。

これは、なにもこどもに限ったことではありません。

他人から預かったものと、自分で作ったものでは、その扱い方も変わってきます。

やはり、他人からの預かりものは大切にしますよね。

その心持ちが、今必要だと思うのです。

たとえ自分の血がつながったこどもであれ、それは摩訶不思議な縁の中から授かったものなのです。

けして私が創造したものではないのです。

虐待する気持ちもたしかに分かります。

しかし、もう一度

「こどもとは授かりものである」

ということばの意味を考えていただければと思います。

すべては縁の中です。

【確認事項】このページは、鹿児島教区の若手僧侶が「日頃考えていることやご門徒の方々にお伝えしたいことを発表する場がほしい」との要望を受けて鹿児島教区懇談会が提供しているスペースです。したがって、掲載内容がそのまま鹿児島教区懇談会の総意ではないことを付記しておきます。