本願寺八代宗主、蓮如上人がおっしゃったお言葉を書きとめた『御一代記聞書』の中に
「たとい正義(しょうぎ)たりとも、しげからんことをば、停止(ちょうじ)すべき由候」
という言葉があります。
この
「正義(しょうぎ)」
というのは、信心についての正しい理解という意味なのですが、いまここでは、もっと広く世間一般で理解されている
「正義(せいぎ)」
という意味で理解したいと思います。
「しげからん」
というのは、
「主張し、そのことに固執する」
ということです。
そうすると、
「正義なりとしげからん」
というのは、自分は正義の徒なのだ、自分こそが正義の味方なのだと、どこまでも自分が正義であることに固執して、それを主張し続けるということです。
そこで、そういうことは
「停止すべき由候」
つまり
「やめなさい」
と注意しておられる訳です。
これは、社会生活を営む上で、それぞれが自分の正義をどこまでも主張し続けるということが、もっとも人を悩ませ、ひいては大きな争いを引き起こすということを指摘しておられるのです。
特に知っておかなければならいのは、私たちの人生の争いは、善と悪との争いではなく、常に善と善との争いだということです。
お互いに自分は間違いない、自分が正しいのだと、お互いに自分の善を主張する。
そして、お互いに自分の善に固執するところから、争いはとどまることなく続いていくのです。
また、蓮如上人は
「まいらせ心がわろき」
ともおっしゃっておられます。
「まいらせ心」とは、
「自分は良いことをしたぞという思いで、それを人におしつける心」
のことです。
端的には、自分の正義を他人にどこまでも主張し続けていく在り方のことです。
有名な歴史作家であった司馬遼太郎さんが、ベトナムの戦地をまわってこられた紀行文の中で
「人間は、正義の名を自分に掲げたときには、どんな残酷なことでもする」
と述べておられます。
人間は
「自分は正義の徒である」
というように、自分に正義の名を付けたときには、その正義の名においてどんな残酷なことでもしてしまう存在だといわれるのです。
そのために、それが
「平和のために」
となされる行為であっても、人は自身の正義をふりかざすことでかえって争いを大きくしてしまうことがあるのです。
それは世界のいたるところで見られる悲しい現実です。
さて、常識で考えて、人は悪いことをしている時、実は内心ではそのことに対して痛みを持っているものです。
そのため、機会があれば改心することも多いのですが、一方自分が正義だという思いに凝り固まっている人は、どうにも手がつけようがないということがあります。
そのため、むしろ悪よりも正義の方が人をより深く惑わせるということがあります。
しかも、そのような人は、自分の行為に疑いを持つことがないため、どこまで突っ走るかわかりません。
だからこそ、私たちはそのような在り方を見つめさせる仏法に耳を傾けることを忘れないようにしたいものです。