源信僧都は、その著『往生要集』において、以下のように述べておられます。
人は誰も人間として生まれことを当り前と思っている。
だが、六道輪廻の観点からすると
「無量生死の中に、人身を得る(人間に生まれること)こと」
は大変な僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸せ)であり、しかも
「苦海を離れて浄土に往生すべき」
機会は、人間界に生まれた現在をおいてない。
六道輪廻の苦患を免れ、浄土往生を願うのであれば、いまこそ発心すべきときである。
では、発心するにしても、具体的にはどうしたらよいのでしょうか。
「末法万年には、余経はことごとく滅し、弥陀の一経のみ物(衆生)を利すること偏に増さん」
末法の世では、仏法自体が衰滅するのだから、いかに難行苦行に励んでも、仏の救いにあずかることは期しがたい。
それに対し、阿弥陀如来は、念仏するものは浄土に救いとると仰っておられ、その本願を推し量れば、浄土信仰こそ末法時における最適唯一の教えというべきである。
そのうえ、有り難いことに
「ただこれ、男女、貴賤、行住座臥(ぎょうじゅうざが)を簡(えら)ばず、時処期機縁を論ぜず」
と、男女の別、あるいは身分の上下、修行の場所・形態などを問題にしない教えなのですから、
「これを修行すること難からず」と。
つまり、信仰の実践として念仏を称えることは、誰もが、いつでも、どこでも、容易に出来るのです。
源信僧都の説かれる浄土信仰の勧めの要旨は、ほぼ以上に尽きます。
難しい哲学的思弁や、常人には成し難い修行を必須の条件とする聖道門より、念仏するだけで十分だとする浄土門の易行の方がまさっており、また阿弥陀仏の救いの手は、あらゆる階層の人々に平等にのばされているということを、源信僧都は初めて体系的に啓示されたのでした。
けれども、そのように啓示されたものの、源信僧都自身は依然として
「法華経」
八千巻はじめ大乗経典五万五千巻を読誦したり、種々の真言を唱えたりというふうに、浄土信仰一門にのみ帰依するのではなく、いわゆる難行と易行の間を揺れ動いているかのような面が見られました。
その限界を打ち破られたのが、浄土宗の祖で、親鸞聖人が
「真宗興隆の太祖」
と仰がれた法然聖人でした。