親鸞聖人のお言葉として
「酒はこれ忘憂の名あり」
という言葉が伝えられています。
仏教では、一般の信者の方々が守るべき事柄として、五つの戒律が示されていますが、その五番目に
「酒を飲むことなかれ」
という項目があります。
これは、前の四項目としてあげられている
「殺すことなかれ」
「盗むことなかれ」
「嘘をいうことなかれ」
「邪で淫らな男女の交わりを結ぶことなかれ」
とは違い
「ほどほどにしておくように」
という意味でおかれているのだそうです。
だからといって、日々の生活において守るべき事柄の一つとしてあげられているのですから、決して疎かにして良いということではないと思われます。
にもかかわらず、親鸞聖人がこのような言葉を残しておられるのは、おそらく酒を飲んで憂いを忘れなくてはならないような生き方をしている人々の心を、本当に知っておられたからではないでしょうか。
言うなれば、酒だけがこの世で慰めになるような生き方をしている人々の心を知り、そういう人々と共に生きておられたからこそ、酒の味を理解しておいでだったのだと思われます。
なお、今ここで言う酒の味とは、美味しいとか、美味しくないとか、そういうことではありません。
酒を飲まずにはおれない人々の心のことです。
親鸞聖人は、生きて行く中で辛い思い、悲しい思いをしている人々に接するときは、勇気を奮い起こさせるような励ましの言葉をかけることよりも、どこまでもその悲しみや憂いに満ちた心により添うことを大切になさったことが窺われます。
ともすれば、私たちはつい周囲の人々に対して
「頑張って!」
と、励ましの言葉をかけてしまいがちです。
もちろん、決してそれがいけないということではありませんが、
「頑張って!」
という時の私の立ち位置は、どこまでもその人を向こう側に見る場所です。
したがって、そこにはおそらく
「共に」
という心は生まれてこないように思われます。
お釈迦さまが教えてくださるように、私の人生には誰も代わってくれるものはいません。
ですから、辛いことも、苦しいことも、すべて私の身に起きたことは、この私が引き受けていく以外に道はないのです。
けれども、逆境に陥ったからといって、私たちはその事実だけでつぶれてしまうということはありません。
なぜなら、その苦しい胸の内をただ黙って聞いてくれる、あるいは何も言わなくてもかたわらに寄り添ってくれる人がいるだけで、そこに再び生きる勇気がわいてくるものだからです。
悩み苦しんでいる人に、多くの言葉はいらないのです。
ただ、黙って話を聞いてくれたり、そばに寄り添ってくれる人がいるだけで、私たちは自分の弱さと向かい合ったり、胸の奥に押し殺してきたいろいろな思いを解放することができたりするのです。
隣で一緒にゲームをしたり、黙ってお酒を勧めたり…、関わり方は人それぞれでしょうが、共に泣ける心を持つ、そんな人の一人になりたいものです。