『頑張れの声よりも共に泣ける心』

お寺で生活させて頂きますと、実に多くの方々から、様々な質問や悩み、相談をお受けいたします。

先日の事です。

地元の二十代のある後輩から相談を受けました。

彼は、私共のお寺の御門徒の家庭に育っておりますが、彼自身は今までほとんどお寺に参った事はなく、夏休みに帰省した折に、日頃から抱えている悩み、不安を私に打ち明けに来ました。

その相談とは、

「最近、どこへ行っても霊が見えて怖いんです。

実家に帰省しても寝ている部屋に毎晩やってきて、怖くて電気を消して眠れないです。

おはらいをしてもらえませんか?」

と、いう相談でした。

浄土真宗では、阿弥陀様のはたらきにより、故人は死後ただちにお浄土に生まれられるといただいております。

ですから故人を霊として扱ったりはいたしませんので、除霊やおはらいなどはいたしません。

彼は後輩でありますが、歳が離れていることもあり、今まであまり親しく話をしたこともありませんでしたし、お寺に参るご縁もあまりなかった事もあり、そのような教義的な事は知らずに来たので、私も簡単な説明をして、

「浄土真宗では、おはらいはしないし、ましてそんな力は無いし、役に立てなくてごめんね」

と、言って帰しました。

しかしその夜、

「本当にあれで良かったのだろうか?」

もちろんおはらいは出来ないけれども

「もう少し彼の思いを聞いて、彼のこころに寄り添う努力をすべきだったでは?」

私はどこか彼の悩みに対して

「終始否定的な思いで対応していたのではないか?」

と、私自身のあり方を反省する事でありました。

それほど今まで話したこともなく、お寺に来たこともないのに、余程の思いをもって私をたずねて来た彼の言葉を、私は聞いたつもりでいただけで、本当の意味で彼の思いを聞いてはいませんでした。

そこで後日、この事を彼に謝罪をして

「もう一度、詳しく聞かせてもらえないか?」

とお願いをして、彼に再びお寺に来てもらう事になりました。

そのようにして聞かせてもらった彼の言葉は、前回と同じような内容でも、聞く私にとっては全く違うものであり、前回のように

「役に立てなくてごめんね」

と他人事ではなく、

「彼のために何も出来ないかもしれないが、なんとか少しでも不安を取り除き、仏縁とつなげていくお手伝いが出来ないものか」

と考えるようになりました。

「聞いてあげた」

というぐらいの感覚では、かえってその人をおとしめ、傷付ける事にもなるでしょうし、わたくしはあらためて

「聞く」

という事の大切さ、難しさを身をもって知らされる事でした。

聞き方によっては、所詮他人事に過ぎず、わたくしの事として人の痛みや苦しみを感じることもあります。

「人の痛みや苦しみを、わたくしの痛み苦しみとして引き受けていき、そこに寄り添っていく」

すべてのいのちへの共感こそが、まさに阿弥陀様の大いなる慈悲のお心であります。

このわたしは、身内であったり関わりの深い人であれば、そのような共感する心が自然と湧いてきたりしますが、そうでない方々に対しては、文字どおり他人事になってしまいがちです。

そのような自己中心的なわたくしの心を通して、阿弥陀様の大いなる慈悲のお心に出遇わしていただき、またその阿弥陀様のお心を通してわたくしのありのままの姿に気づかせていただく事であります。

有難いことです。