「この身をいただいたということ」(中旬)仏教は道を聞く

多くの人は、地獄や餓鬼は悪いことをした人が死んでから行く所だと思っています。

でも

「悪いことをしたら地獄に行くぞ」

「悪いことをしたら餓鬼道に行くぞ」

という教えは仏教ではありません。

これは儒教です。

「人間がどうしたらこのような状態から抜け出て行けるか」

というのが仏教の話であって、悪いことをしたら地獄に行くぞという脅しの話ではないのです。

ところが、いつの間にやら地獄・餓鬼というのは悪いことをした人が行く所というようになったのです。

本来は、いま現に煩悩を主にしながら生きているこの私のいのちの姿を、地獄や餓鬼と言っているのです。

ですから、仏教はいつでも

「今ここにある私」

を問題にしているのです。

決して昨日や明日の私を問題にしている訳ではないのです。

また私たちは、思うように人生が行かない、我が通らないと腹を立てる。

それを

「瞋恚(しんに)」

と言います。

瞋とは腹立ちのことです。

人間は、腹を立てたら、たいがいは人を責めるんです。

人間というのは、勝手ですから、いいことがあったらわが手柄、悪いことがあったら人のせいです。

顔色を変えて人を責めている

「いのち」

の姿を鬼と言っているのです。

腹を立てて真っ赤になって責めている人が赤鬼、青筋を立てて人を責めているのが青鬼です。

ところが、私たちは顔色を変えた自分の顔を見たことがないから、

「あの人は鬼みたいや」

と言って、自分が鬼になっているのに気付かないのです。

もともと仏教とは、お話を聞く宗教ではないのです。

話を聞いて喜んでいるのは仏教ではないのです。

仏教は道を聞くのです。

「往生極楽の道を問い聞かんがためなり」

でしょ。

道を聞くのと話を聞くのではどこが違うのかと言いますと、話は他人事です。

ですから、気楽に聞けます。

仏法は仏道、道を聞いていくのです。

自分のいのちのあり方を聞いていくのです。

道を聞かずに話だけを聞いて喜んでおったら、それは仏教を聞いたのではない。

ただ話を聞いて、いっとき日頃の嫌なことを忘れているだけの話なのです。

仏教では、私の「いのち」は今どこにあるのか、

わが「いのち」はどんな形で成立しているのか、

そのことを知らない者を畜生と言います。

この身体がどこへ動こうとも、わが

「いのち」

はみんなに支えれてある

「いのち」

です。

決して一人で生きている訳ではないのです。

言葉を変えれば、己一人で生きていると思っている者は、愚か者の代表です。

親鸞聖人は

「十方無量の諸仏は百重千重囲繞(いにょう)してよろこびまもりたまふりな」

とおっしゃっておられます。

お念仏してみたら、百重にも千重にもわが

「いのち」

を取り囲んで護ってくださる方が見えたと。

親鸞聖人から言えば、わが

「いのち」

を摂取して捨てることのない、しっかりと抱きしめて捨てることのないお慈悲のど真ん中に生かされているのだということを忘れてしまって、己一人で生きていると思っている者が畜生になるのです。