『流す涙に育てられるものもある』

あなたは、どのような時に涙を流しますか。

例えば、忘れてしまいたいことや、どうしようもない悲しさに包まれた時ですか。

それとも、心から嬉しいことがあったりした時ですか。

人によっては、何かに感動して、気がつけば涙を流しているということもあったりするかもしれませんね。

さて、

「涙を流す」

ことを

「泣く」

と言いますが、この

「泣く」という文字は、

「サンズイ」に

「立」

という字が添えてあります。

また

「涙」という字は同じく

「サンズイ」

に今度は

「戻」

という字が添えてあります。

これは、私たちが深い悲しみに出会い、涙に溺れそうになっている時、たとえそれがどんなに深い悲しみであったとしても、必ず

「立」ちあがらせずにはおかないという、仏さまの願いを表すために

「サンズイ」に

「立」を添えて

「泣」という字にし、

「涙」

に押し流されてしまいそうになる私たちを、必ずあるべき姿に引き

「戻」

してくださる、仏さまの御心を表すために

「サンズイ」に

「戻」を添えて、

「涙」

という字にしてあるのだというお話を聞いたことがあります。

経典には

「仏さまは、いつも私たちの心や想いの中に入り、私たちを導いて下さる」

ということが説かれています。

これは、私たちが悲しみにうちひしがれて心が沈み、泣いている時には新しい視点を与えて立ち上がらせ、悲しみの涙に押し流されかけている時には、新しい生きがいを示して本来の生き方に引き戻して下さるということのようです。

人生において、辛いことや悲しいことは、なければそれにこしたことはありませんが、条件さえ整えば思いがけない苦難に陥ることも少なからずあります。

けれども、人間には

「悲しみを通さないと見えてこない世界がある」

とも言われます。

悲しみに出会うことを通して、それまで

「当たり前」

と思っていたことが、決してそうではなかったことに気がついたり、見落としていたり、気にも止めていなかったことに頷かされたりすることがあったりするということでしょうか。

もちろん、私たちは悲しい時ばかりではなく、時には笑顔で涙を流すこともあったりします。

「嬉し涙」

と言われるものですが、出来れば人生においては、悲しくて流すよりも嬉しくて流す涙の回数が多い方が望ましいものです。

この他に、テレビや映画、あるいはスポーツなどを見て感動のあまり涙を流すこともあります。

思えば、悲しかったり、嬉しかったり、そして感動したり…と、いずれも私たちは何かにふれて心が大きく揺れ動く時に

「涙」

を流すようです。

そのような体験の繰り返しの中で、人は少しずつ成長をして行くのではないでしょうか。