『お盆仏縁を喜び合う』

「週刊朝日」

の2011年7月29日号に

『「今静かにブッダがブーム」・・仏教ではなく人間ブッダが震災後の日本の闇を照らす!』

という記事が掲載されていました。

以下は、その記事を読んだ私の率直な感想です。

まず、見出しについてですが、お釈迦さまは、

「親しきものは離れ、栄えるものの衰えることは常に汝(阿難尊者)に語ってきたことではないか世は無常にして、生まれたるものは必ず死に至らねばならない」

と、この世は無常であることを明らかにされ

「我が亡き後は自らを灯明とし自らをよりどころとし、法を灯明とし法をよりどころとせよ」

と、

「自灯明・法灯明」

の教えを説かれました。

この二つの言葉によって知られるのは、この世の中は無常であるが故に

「人間ブッダ」

をよりどころにしてはならない、私たちがよりどころとすべきは

「仏の教えであり、仏の教えに照らされた自らの歩みである」

ということで、まさにこれがお釈迦さまの説かれるところです。

このことについてはより具体的に、お釈迦さまのお弟子のヴァッカリが重い病気にかかり、もう助からないと思い、最後の望みとして

「お釈迦さまのお顔を拝んで、もう一度お釈迦さまのもとにひざまずきたい」

と願ったとき、次のように述べておられます。

「ヴァッカリよ、私の老耄(ろうもう)しているこの体を、どれだけ見ても、何もならない。

私の姿を見るものは、法を見ないものだ。

法を見るものは、この私を見るものである。

法を見るものこそ、真の私に出遇ったものだ」

そうしますと、

「仏教ではなく人間ブッダが震災後の日本の闇を照らす」

という週刊誌の見出しは、お釈迦さまの言葉によって、たちどころに否定されてしまうことになります。

にもかかわらず、否定されていることを肯定するから面白いのかなとも思いますが、しかし、さらに問題なのは、その記事の内容です。

週刊誌の文中で、小池龍之介氏は

「日本ではずっとブッダそのものの教えよりも、空海(弘法大師)、親鸞といった宗派を興した人の教えが重んじられてきた。

でも数千年に一度の大天才と数百年に一度の小天才、大秀才とは違いがあります」

と述べています。

果たして、そうでしょうか。

小池氏の論法では、お釈迦さまの教えの他に、弘法大師や親鸞聖人の教えがあるかのようです。

親鸞聖人は

「仏の言葉であるお経を教えのまま頂く」

という姿勢を一貫された方です。

お念仏の教えも、

「これは自分の教えだ」

などと言われるわけがありません。

それを裏付けるように、

「自ら信じ、人に教えて信じさせるのは極めて難しい。

仏の大悲が人々を教化していくのだ。」

と、人々に教えを語られる時も、自分も共に教えを聞く者の一人であるとの自覚から、

「聞き続ける」

という姿勢に終始され、自分の口を通して仏の大悲が躍動しているのだと頷いておられます。

間違っても、お釈迦さまと自分が同一線上に並び立つ者だという考え方はされません。

ですから、親鸞聖人の教えを聞くものは、親鸞聖人の語りかけを通して仏の教えを聞くということを決して見失ってはなりません。

また、宗教学者の島田裕巳さんは仏教を今話題のドラッカーに当てはめて

「教団は(中略)救済の対象となる“衆生”という顧客を創造しました」

といいます。

これも、本当にそうなのでしょうか。

本来

「衆生」

という言葉は、

「ともに共存していくもの」

という意味なのですが、それを歪曲して

「衆生という顧客を創造した」

などと述べるということは、宗教学者としての資質に疑問を呈せざるを得ません。

もしかすると、

「衆生」

がお金儲けの対象にでも見えるのでしょうか。

まぁ、そのように見えている仏教関係者が少なからずいることも否定出来難い事実ですが、私たち仏教に縁ある者は、お釈迦さまは衆生によって生かされる托鉢の道を歩まれたことを思い起こす必要があります。

「衆生」

とは、顧客などではなく、共に仏法を聞き、共に仏道を歩み、支え合う大切な仲間であり、それを親鸞聖人の言葉に則して言えば

「御同行・御同朋」

ということになります。

親鸞聖人は『涅槃経』において

「真実といふはすなわちこれ如来なり。

如来はすなわちこれ真実なり」

といわれます。

これは

「如来の他に真実はない」

というお言葉です。

ともすれば

「苦難は人に押しつけても、自分だけは幸せになりたい」

と身勝手な願い惑う私たちに、

「苦難は私が引き受けるから、あなたはまことの幸せを得てください」

と願っていくのが、まことの生き方であると受け入れていくことを聞法といいます。

この真実に出会い、申し訳ない、恥ずかしい生き方をして参りましたと自らのあり方を受け入れていく時に、仏の願いの深さが知られ、自然と頭が下がるものです。

浄土真宗の教えとは、立派な哲学者になる事を目指すものではありません。

『歎異抄』は

「あらゆる煩悩を身にそなえているわたしどもは、どのような修行によっても迷いの世界をのがれることはできません。

阿弥陀仏は、それをあわれに思われて本願をおこされたのであり、そのおこころはわたしどものような悪人をすくいとって仏にするためなのです」

と、親鸞聖人が語られたことを伝えています。

こんな私が歩める仏の道があったと知らされた、尊いご縁を喜んでいきたいと思います。