このように見れば、法然聖人によって明らかにされた
「選択本願念仏」
という、阿弥陀仏の本願の教えが
「浄土真宗」
であって、親鸞聖人はまさに法然聖人の念仏往生の道に行かされ、生涯、この教えにしたがって、ただ念仏のみの道を歩み続けられたといえます。
法然聖人は生涯、称名念仏による往生の道を説き続けられたのであり、親鸞聖人もまた、生涯かけて称名念仏による往生浄土の道を歩み続けられたのです。
そのため、行道における両者の念仏道は完全に一致するのであって、そこには何等思想のズレは見られません。
ところが、いま法然聖人の主著
『選択本願念仏集』
と親鸞聖人の主著
『教行信証』
を重ねて見ますと、今度は逆に、そこにほとんどといって良いほど、思想の一致は見られません。
『教行信証』
には、経・論・釈、多くの書物から文章が引用されていますが、
『選択集』
からは
「行巻」
に一カ所引用されているだけであり、根本的といってよいほどの違いが生じています。
これをどう見ればよいのでしょうか。
この両者の思想の相違は、一般的には法然聖人は念仏往生であり、親鸞聖人は信心往生であることによるものとされています。
もちろん、真宗の側からすれば、従来からも両者の思想の違いが強調されているのではなく、
『正信偈』
に、法然聖人の根本思想が、
生死輪転の家に還来することは決するに疑情をもって所止とす
速やかに寂静無為の楽に入ることは必ず信心をもって能入すといえり
と述べられていることからに、親鸞聖人は法然聖人の教え
「信心正因」
だと理解しておられたと受け止めています。
したがって、
・法然聖人の念仏往生の義には、当然その念仏には
「信心」
が含まれている。
・法然聖人は聖道門の諸行に対して、浄土門の行はただ念仏一行だと、仏道における
「行」
念仏の特徴として念仏往生義を主張された。
・それに対して親鸞聖人は、浄土門内にあって、その念仏往生の中心こそ信心であると、法然聖人の念仏往生義の特徴を
「信」
と捉えた。
これが、親鸞聖人の信心往生義ですから、両者の思想には、何ら相違はないと理解されています。
けれども、これは真宗者にとって都合のよい見解であり、両者の思想そのものからは、このような見方をすることは出来ません。
なぜなら、法然聖人の念仏往生の義において、信心が重視されているといっても、その信心と念仏の関係は、信じて念仏するという仏道です。
それに対して、親鸞聖人の信心往生に見られる念仏と信心の関係は、大行としての念仏を信じるという仏道ですから、往因としての信心と念仏は、二者の間で、その順序は逆転しており、それが同一思想だという主張は成り立たちません。