親鸞聖人は、この念仏の法門をただ一心に聴聞されます。
ここにおいて、何が明らかになられたのでしょうか。
それは
『歎異抄』に
「ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべし」
と示される
「よきひとのおほせ」
であることは言うまでもありません。
しかも、この点を親鸞聖人は、後にお手紙の中で次のように述べておられます。
尋ね仰られ候念仏の不審の事。
念仏往生と信ずる人は辺地の往生とてきらはれ候らんこと、おほかたこころえがたく候。
そのゆへは、弥陀の本願とまふすは、名号をとなへんものをば極楽へむかへんとちかはせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候なり。
親鸞聖人の晩年、関東の弟子たちの間で、念仏に関して大きな問題が生じました。
念仏往生派と信心往生派との間で、往生に関して論争が起こり、信心往生派が、往生を願って一心に念仏を称えている念仏往生派の人々に、そのように
「念仏往生」
と信じている者は、辺地にしか往生しないと非難したのです。
しかもこの論争は、弟子たちの間では結論を導くことができませんでした。
なぜなら、親鸞聖人はある場合には
「ただ信心が往生の正因である」
と述べられ、またある場合には
「ただ念仏が往生の業」
だと説いておられるからです。
そこで、そのことへの疑問を京都の親鸞聖人に手紙で問われることになりました。
この弟子たちからの質問対して親鸞聖人は、両者の論争は全く無意味であり、両者とも念仏と信心の真理が根本的に分かっていないとして、弟子たちの論争そのものを厳しく否定されます。
弟子たちの質問に対して親鸞聖人は、まず阿弥陀仏が本願に何を誓われているかを明らかにされます。
阿弥陀仏は、本願に
「名号を称えるものを極楽に往生せしめる」
と誓われます。
願意が
「称名するものを救う」
のですから、親鸞聖人は弟子たちに
「ただ念仏が往生の業」
だと説かれたのです。
したがって、この場合の
「念仏」
は、一切の衆生を救うための、阿弥陀仏のはたらきそのものであり、同時にその名号が大行であることを説示しておられます。
これは、釈尊の大悲の行を意味しておられるのです。
私たちはいったい、どのような行によって往生するのでしょうか。
それはまさしく、釈尊によって明らかにされた、この念仏の大行によって往生するのです。
そこで、往生の因について親鸞聖人は
「ただ信心を要とする」
と述べられます。
これが、信心がまさしく往生の因であるとされる
「信心往生」
の義です。